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沙

『沙門道元』

しゃもんどうげん

現代

和辻による近代初の本格的道元論

哲学宗教

この著作について

和辻哲郎が1926年に「思想」誌上に連載し、後に『日本精神史研究』に収められた長編論考。道元の『正法眼蔵』をめぐる日本近代初の本格的哲学的解読であり、和辻思想の出発点の一つとなった。

【内容】

和辻は道元を単なる禅僧ではなく、現存在《げんそんざい》の時間性と実践を正面から思索した一人の哲学者として読む。特に『正法眼蔵』「現成公案《こうあん》」「有時」「山水経」などを手がかりに、修行と悟りを分けない「修証一等《しゅしょういっとう》」、時間と存在が一体化した「有時《うじ》」、坐禅という実践のなかでのみ真理が開示されるという思想構造を取り出す。ハイデガー『存在と時間』以前の段階で、存在と時間をめぐる日本独自の哲学言語の可能性を示した。

【影響と意義】

道元研究の近代的起点となり、玉城康四郎、鏡島元隆、上田閑照《うえだしずてる》ら後続の道元学者たちに継承された。京都学派の思索や、鈴木大拙《すずきだいせつ》らによる禅の西洋紹介にも刺激を与えた。

【なぜ今読むか】

日常の動作(立つ・坐る・歩く)のなかに絶対を見る道元の思考を、近代の哲学言語に翻訳した最良の入口。マインドフルネス流行の浅さに飽きた読者にこそ薦めたい。

さらに深く

【内容のあらまし】

全9章からなり、文末には大正九年から十二年と記される。初めの三分の二は、雑誌「思想」の創刊前に「新小説」へ連載された。序言で和辻は、自分は禅の門外漢で、道元への驚嘆を語るにすぎないと断り、二つの抗議を自分に向ける。門外漢のお前に、坐禅を力説した道元が理解できるのか。宗教家の真理を文化史の理解に使うとは何事か。一つ目には、禅寺に入らずとも著書を通して道元に学べると答え、宗派のなかで道元は殺されてきたので、宗祖でなく我々の道元を語ると言う。二つ目には、宗教の真理はいつも特殊な形でしか現れず、だから宗教は歴史をもつ、と答える。

修行時代は師たちの人格を通して描かれる。薬師像の光に使う銅を折り曲げて、飢えた一家に与えた栄西。和辻は、後年の道元が師との問答でなくただ師の言行を語ったことに目を留め、自分の禅宗観が崩れたと書く。死に瀕した自分の師の引き止めに背いて宋へ渡った明全《みょうぜん》。僧を叱り打ちすえながら、これは仏に代わって衆を導く方式だから慈悲をもって許してほしいと語り、皆を泣かせた天童如浄《てんどうにょじょう》。

帰国後の京都では盗賊が横行し、夜ごとに放火や殺人や略奪があった。三十歳で深草の廃院に移った道元は、三十二歳で『正法眼蔵』の最初の巻を書く。親鸞と並べる章では、親鸞が説くのは仏の慈悲、道元が説くのは人間の慈悲だと対照する。その例に、公金を盗んで衆に施し死罪と定まった智覚禅師の話が引かれる。「社会問題との関係」の章は、道元が荘園の争いや地頭の苛斂を批評せず、「学道の人は先づ須く貧なるべし」という教えを俗人でなく僧にだけ向けたと論じる。「芸術への非難」の章は、その考えが仏教の芸術的な営みの否認にまで至ることを論じる。

第9章は道元のいう真理に向かい、『正法眼蔵』の巻をいくつか例に取る。「礼拝得髄《らいはいとくずい》」では、法を得た者なら年少でも女人でも礼拝せよという主張を取り上げる。道元は「女人なにのとがかある。男子なにの徳かある」(女に何の咎、男に何の徳があるのか)と書き、女人禁制の道場を日本の笑いごとと呼んだ。和辻はここに、万人の平等の上に立つ精神的な貴族主義を見る。「仏性」では、衆生のうちに仏性があるのではなく仏性のうちに衆生がある、という読み替えを追う。「道得《どうて》」はロゴスの自己展開として、「葛藤」は、達磨が四人の弟子にそれぞれ皮・肉・骨・髄を得たと告げた話を手がかりに、矛盾の絡み合いを通じて伸びていく弁証法として読まれる。追記で和辻は、この一篇を道元の哲学の叙述を企てて挫折したものと認め、田辺元が道元へ近づく機縁になったと知った喜びを書き添える。

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