『意義と意味について』
いぎといみについて
近代
指示と意義の区別を打ち立てた言語哲学の金字塔的論文
この著作について
ゴットロープ・フレーゲ(Gottlob Frege)が1892年に発表した論文(原題『Über Sinn und Bedeutung』)。「Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik」誌に掲載されたわずか三十頁ほどの論考だが、言語哲学・分析哲学の出発点として、二十世紀のあらゆる意味論的議論の参照点となった歴史的文書である。
【内容】
フレーゲはまず、同一性言明の認識論的謎を提示する。「明けの明星は明けの明星である」は自明な同語反復だが、「明けの明星は宵の明星である」は天文学的発見を含む。両者は同じ対象(金星)を指示しているのに、認識的価値が根本的に異なる。この差を説明するため、フレーゲは言語表現に二つの水準——意義(Sinn)と指示(Bedeutung)——を区別する。意義は表現が対象を指し示す仕方であり、指示は表現が実際に指す対象である。「明けの明星」と「宵の明星」は同じ指示(金星)を持ちつつ異なる意義を持つ。文についても、意義は思想であり、指示は真理値(真または偽)であるとされる。引用文・命題態度文における意義と指示の振る舞いが具体例で分析され、以後の言語哲学の基本的論点がここで整備される。
【影響と意義】
本論文はバートランド・ラッセル『指示について』(1905)、ソール・クリプキ『名指しと必然性』(1980)、マイケル・ダメットのフレーゲ研究(1973)に至る言語哲学の全系譜の出発点である。自然言語処理・意味論的検索・AIの言語理解理論にも間接的影響を残している。
【なぜ今読むか】
生成AIが言葉と対象の関係を新しい仕方で扱う現在、その根本問題を最も早く明晰に定式化した本論文は、言語と意味を考える基礎訓練として最短の教材である。
どの訳で読むか
ここに挙げる三つの訳は、どれも論文集の中の一篇として収められている。フレーゲのほかの論考とあわせて読むなら藤村訳、ラッセルやクリプキなど後の言語哲学の論文と続けて読むなら野本訳、分析哲学の初期の論文と並べて読むなら土屋訳の論文集が目安になる。探すときは、論文の題ではなく収録先の本の題で探すとよい。
土屋俊訳勁草書房・双書プロブレーマタ、1986年(坂本百大編 現代哲学基本論文集Ⅰ所収)
Amazonで探す分析哲学の源流をたどる論文7本を集めた論文集の最初に置かれ、ラッセル「指示について」(清水義夫訳)、ラムジー「事実と命題」、カルナップ「科学の普遍言語としての物理的言語」などが続く。2025年5月に重版され、版元のサイトでは在庫ありと表示されている(2026年10月時点)。黒田亘・野本和幸編のフレーゲ著作集4 哲学論集(1999年)でも、この論文は土屋俊が訳しており、「関数と概念」「概念と対象について」「意義と意味詳論」(いずれも野本和幸訳)などとあわせて読める。著作集4の紙の本は版元で品切れ・重版未定と表示されているが(2026年10月時点)、2025年6月にオンデマンド版が出た。
藤村龍雄訳岩波書店、1988年(フレーゲ哲学論集所収)、2017年に岩波オンデマンドブックスで再刊
Amazonで探すフレーゲの論考を集めた1冊で、版元は、専門的知識を要しない哲学論考七編を選んだと紹介している。「関数とは何か」「否定」もこの本で読め、前半には「意味」にかかわる三編の論文が並ぶ。1988年の単行本は版元で品切れと表示されており(2026年10月時点)、いまは注文を受けてから作るオンデマンド版で手に入る。
野本和幸訳春秋社・現代哲学への招待、2013年(松阪陽一編訳 言語哲学重要論文集所収)
Amazonで探す言語哲学の論文8本を3部に分けて集めた論文集の最初の一篇。ラッセル「表示について」(松阪陽一訳)が続き、ドネラン、カプラン、エヴァンズ、クワイン、クリプキの論文までが1冊に入り、巻末に編訳者のあとがきと文献案内がつく。版元のサイトでは在庫ありと表示されている(2026年10月時点)。
さらに深く
【内容のあらまし】
書き出しは等しさへの問いだ。それは対象どうしの関係なのか、名前や記号どうしの関係なのか。フレーゲは『概念記法』では後者を採ったと明かし、その理由を挙げたうえで難点を示していく。三角形の頂点と対辺の中点を結ぶ線をa、b、cとすれば、aとbの交点とbとcの交点は同じ点になる。同じ点に別々の名があり、名がその点の示され方を含むからこそ、この等しさは知識になる。記号が指すもの、つまり指示(Bedeutung。この題の「意味」にあたる)と、示され方を含む意義とが分けられる。意義があっても指示があるとは限らず、「地球から最も遠い天体」がその例に挙がる。引用符の中の語は語自身を指し、人の言葉を伝える間接話法では、語はふだんの意義を指す。
次に、意義は記号に伴う主観的な表象から区別される。ブケファロスの名に画家と騎手と動物学者が結びつける表象はおそらく違うが、意義は多くの人の共有財産になりうる。望遠鏡のたとえで、月そのものが指示、対物レンズの実像が意義、見る人の網膜像が表象にあたる。実像は見る位置に左右されるが、何人もが使えて客観的だと説く。
次は文全体だ。「明けの明星は太陽に照らされる天体だ」の明けの明星を宵の明星に替えると、指すものは同じでも思想が変わる。ゆえに文の意義は思想だという。「オデュッセウスは深く眠ったままイタカの岸に降ろされた」には意義があるが、その名に指示があるかは疑わしい。叙事詩として聴くだけなら、それは気にならない。私たちを意義から指示へと押しやるのは真理への努力で、文が指すのは真か偽かという値だとされる。確かめには、真理を損なわずに互いに置き換えられるものは同じだという、ライプニッツの定義が使われる。
後半の多くは従属節の検討にあてられる。コペルニクスが惑星の軌道を円だと信じたという文では、従属節が指すのは思想で、全体の真偽は従属節の真偽に左右されない。「惑星軌道の楕円形を発見した者は貧窮のうちに死んだ」では、従属節が指すのはケプラーその人になる。指示のない見かけの固有名は扇動に使われやすいとして、「民衆の意志」が例に挙がる。ナポレオンの文は二つの思想を述べ、従属節は真理値が同じ文に置き換えられる。ただ、危険に気づいたから率いたという動機の思想までこめられていると見れば、置き換えでその真偽が変わりうる。ベーベルの思い違いの文では従属節が二重にはたらき、氷が水に浮く理由の文には三つの思想がこめられ、単純には置き換えられない。最後に論文は出発点に戻る。a=bが真ならa=aと真理値は同じだが、表す思想が違うので、認識上の価値が違うのだと結ばれる。
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