『悲劇の誕生』
ひげきのたんじょう
近代
アポロン的とディオニュソス的の対比で芸術と文化を論じたニーチェ処女作
この著作について
フリードリヒ・ニーチェが1872年、バーゼル大学教授時代に発表した処女作。副題「音楽の精神からの悲劇の誕生」。古典文献学の枠を逸脱した哲学的文芸論。
【内容】
ニーチェは古代ギリシアの悲劇を、造形的・理性的な「アポロン的」原理と、陶酔的・生命力の「ディオニュソス的」原理の相克と統合の産物として分析する。アイスキュロスやソポクレスの悲劇は両原理の緊張において誕生し、ソクラテスとエウリピデスによる理性の独占が悲劇を殺したとする。文化の再生はディオニュソス的精神の回帰に懸かっており、その期待をワーグナーの楽劇に託した(のちに撤回する)。
【影響と意義】
ニーチェ思想の出発点を示す書であり、『ツァラトゥストラ』『道徳の系譜』へ展開する哲学的問題意識がすでに萌芽している。20世紀の芸術論・文化論・演劇論に広範な影響を与え、トーマス・マン『魔の山』やシュペングラー『西洋の没落』の精神的土壌を形成した。
【なぜ今読むか】
合理性を相対化し、生命力と陶酔を文化の源泉に見る視点は、効率化一辺倒の現代に新鮮な対抗軸を提示する。
どの訳で読むか
文庫で読むなら岩波文庫の秋山英夫訳とちくま学芸文庫の塩屋竹男訳があり、塩屋訳は同じ時期の講演などもあわせて収める。いちばん新しい本は2025年に出た白水Uブックスの浅井真男訳で、新しく書かれた解説がつく。電子書籍で読みたいなら、西尾幹二訳の中公eブックス版と浅井真男訳の電子版がある。
秋山英夫訳岩波書店・岩波文庫、1966年
Amazonで探す版元の紹介文は、ギリシャ文化の明朗さや力強さの底にニーチェが「強さのペシミズム」を見たと説明する。
塩屋竹男訳筑摩書房・ちくま学芸文庫、1993年
Amazonで探すちくま学芸文庫版の全集の第2巻。1886年の「或る自己批判の試み」を含む本書のほか、講演「ソクラテスと悲劇」の断片や「ディオニュソス的世界観」など、同じ思想圏の文章を収める。解説も訳者が書いている。
西尾幹二訳中央公論新社・中公クラシックス、2004年
Amazonで探す「自己批判の試み」もあわせて収める。版元の紹介文は、近代的な学問の立場を根底からひっくり返した「問題の書」とうたう。2013年には、訳者の解説つきの電子版が中公eブックスとして出ている。
浅井真男訳白水社・白水Uブックス、2025年
Amazonで探す白水社の「ニーチェ・コレクション」の第2弾で、副題は「あるいはギリシア精神と悲観論」。1979年刊の白水社の全集の訳に、納富信留の解説を新たに加えた。電子版もある。
さらに深く
【内容のあらまし】
1886年に書き足された「自己批判の試み」は、本文の前に置かれている。ニーチェは、ヴェルトの戦いの砲声がヨーロッパに響いていたころ、この本の父となった思索好きで謎好きの男がアルプスの片隅にいたと、自分を三人称で回想する。最後の節では、悲劇を形而上学の慰めの芸術とする自作の一節に「三たびノー」と答え、どうしてもペシミストでいたいなら、まずこの世での慰めの技、つまり笑うことを学べと、若い友人たちに呼びかける。ワーグナーへの序文は、芸術こそこの生の最高の課題であり、本来の形而上学的な営みだと確信していると記す。
本文の第1節は、アポロン的なものとディオニュソス的なものを、夢と陶酔という生理現象になぞらえ、二つが対になってアッティカ悲劇を生んだと述べる。第3節では、ミダス王が森で捕らえた、ディオニュソスの従者シレノスが登場する。何が最善かと問われた彼は、最善は生まれないこと、存在しないことで手が届かず、次善はすぐに死ぬことだと答える。第5節は、生存と世界は美的現象としてのみ永遠に正当化されるとする。第7節によれば、物の本質を一度のぞいてしまったディオニュソス的人間は、ハムレットと同じく行動に吐き気を覚える。
第11節によれば、ギリシア悲劇は、ほかの芸術のように老いて穏やかに死んだのではなく、自殺した。その断末魔を闘ったのがエウリピデスで、第12節は、彼を通して語っていたのはディオニュソスでもアポロンでもなく、ソクラテスという新しく生まれたダイモンだったと言う。美しくあるにはすべてが理知的でなければならないという美的ソクラテス主義の法則を物差しに、エウリピデスはすべてを測った。ところがソクラテスは獄中で友人たちに、「ソクラテスよ、音楽をせよ」と告げる同じ夢を何度も見たと語っていた。第14節はこれを、論理的な本性の限界への懸念を示す唯一のしるしと読み、ソクラテスは芸術が学問の必要な補いではないかと自問せざるをえなかったはずだと述べる。
第19節は、ソクラテス的な文化にとって圧倒的で敵対的な力として、バッハからベートーヴェン、ワーグナーへ続くドイツ音楽を描く。第21節は、真の音楽家たちに、『トリスタンとイゾルデ』の第3幕を言葉も像も借りずに巨大な交響楽として聴きとりながら、魂の翼をひきつるように広げて息絶えることのない人間を思い描けるか、と問う。最終節は仮定の話で、夢で古代ギリシアに身を置いた者が、ディオニュソスはどれほど偉大かと叫ぶと、アイスキュロスの気高い眼差しをした老アテナイ人が、この民は美しくなるためにどれほど苦しまねばならなかったかと答えるだろう、と語られる。
著者
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