フィロソフィーマップ
芸

『芸術と道徳』

げいじゅつとどうとく

現代

美と善を根源において結び直す西田中期の論集

哲学

この著作について

西田幾多郎が1923年に岩波書店から公刊した論集。京都帝国大学時代に各所で発表した論考をまとめた一冊で、初期の『善の研究』と中期の『働くものから見るものへ』のあいだに位置する。

【内容】

表題作「芸術と道徳」のほか、「美の本質」「感情の内容と意志の内容」「社会的自覚」など7篇を収録する。芸術的体験と道徳的実践を、純粋経験《じゅんすいけいけん》や自覚の深化という同じ地盤から捉え直し、美と善をカント的な峻別《しゅんべつ》ではなく根源における連続性のうちに位置づけようとする。主観と客観、感情と意志、個人と社会の対立をそのつど内側から突破しようとする、西田らしい濃密な論述が続く。

【影響と意義】

戦前の日本美学・倫理学の出発点となり、高坂正顕《こうさかまさあき》、西谷啓治《にしたにけいじ》、和辻哲郎《わつじてつろう》ら京都学派の後続世代に受け継がれた。ヨーロッパ哲学の概念を自らの身体感覚で鋳直そうとする西田独自の文体は、以後の日本語哲学の一つの到達点を示している。

【なぜ今読むか】

芸術と道徳を別々の領域として分けない思考は、美的体験と倫理的生の関係を問い直す現代の議論にも直接響く。読みやすくはないが、一文ずつ反芻《はんすう》する価値がある。

さらに深く

【内容のあらまし】

1923年7月に出た初版の目次には、「美の本質」から「真と善」まで13篇が並ぶ。うち10篇を目次の順にたどる。

巻頭の長篇「美の本質」は、美の本質を鑑賞の作用に求めるべきか、芸術家の創造の作用に求めるべきかと問うところから入る。一方で、数学者が数理を見出すように、芸術家も客観的な世界に新しい美を見出しうると言う。終盤で、画家が絵を描くのは概念的な判断でも単なる自動的な運動でもなく、そこには行為的な自覚があるとして、「スタイルとは行為的自覚である」と言う。

続く短い一篇は、ドイツの画家クリンゲルの線画論を紹介する。ラファエロの線画は絵の断片にすぎないが、デューラーの線画はそれだけで完成しているという対比を追い、西田は、東洋の線画の筆意《ひつい》こそ線画の目的によくかなうのではないかと問う。

「感情の内容と意志の内容」は、芸術の対象としての愛と実生活の愛はどう違うかを問う。ロミオとジュリエットの愛もフランチェスカとパオロの愛も美しいが、彼らは美を求めて愛し合ったのではなく、その愛は彼らには実生活の厳粛な事実だった。「反省的判断の対象界」は、『判断力批判』の冒頭にある限定的判断と反省的判断の区別を取り上げ、両者の基となる一般的なものが同じ性質なら芸術美の内容は明らかにできないと問う。「真善美の合一点」は、アッシジのフランチェスコの「太陽の賛歌」を英訳で引き、日も月も星も風も雲も神の象徴となる境地を示す。ただしそれは無反省の立場ではないとし、自覚は判断の内容にはならず、判断の根底となる直観だと説く。

「社会と個人」は、社会と個人の区別は心理学的な実在の区別にすぎず、倫理学で本当に意味のある対立は自然と自由の対立だと言う。「意志と推論式」は、哲学は超越的意志の自覚でなければならず、ここに真善美の合一点があると結ぶ。「美と善」は、美は単なる快感ではないとし、「純真な生命の内容として善ならざる美はなく、美ならざる善はない」と書いて、両者の区別へ進む。道徳では義務が唯一のものとして臨むが、美では我々は自由だという。

「真と美」は、一方から考えれば真なるものは美だと考えざるをえないと始める。だが他方から考えれば、真と美はどこまでも区別せねばならないとも言い、やがて、真の基礎に美があるとして両者を宗教の立場で一つにする。

末尾の「真と善」は、知識の真理を一般妥当性に求めるリッケルトらの考えを検討し、徹底すれば価値の無秩序に陥ると言う。道徳的行為では動機だけでなく全身体を純化し尽くそうとすると説く。最後の頁には、美と善の世界に入るには真の関門を通らなければならない、という一文がある。

著者

関連する哲学者と話してみる

Amazonで見る