「和を以て貴しとなす」
聖徳太子中世
『日本書紀』が聖徳太子の作と伝える十七条憲法の第一条で、和を何より貴いものとせよと説く言葉。
この言葉について
さらに深く
【出典】
『日本書紀』巻第二十二、推古天皇十二年(604年)の条に、十七条憲法の全文が載る。その第一条の原文は「以和爲貴、无忤爲宗」で、「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗と為す」と読む。後半は、逆らうことの無いのを根本とせよという意味である。成立年には三種の記録があり、604年とするのは『日本書紀』の説で、同書は作者を皇太子、すなわち聖徳太子とする。十七か条は漢文で書かれ、仏教、儒教に加えて法家(法による厳格な政治で君主の権力を強めようとした中国の思想)の影響が強い。また『論語』学而篇には、孔子の門人の有若(有子)の言葉として「禮之用、和爲貴」(礼のはたらきは和を貴いものとする)があり、言い回しがよく似ている。
【よくある誤解】
「和」を、波風を立てずに周りに合わせることと読むと、第一条の続きと合わない。条文は、人はみな党派を組み、道理に通じた者は少ないので、主君や父に従わず近隣とも争う、と現実を認める。そのうえで、上の者が和らぎ下の者が睦まじく、事を論じ合ってかみ合えば道理はおのずから通る、と結ぶ。最後の第十七条も、大事は一人で決めず必ず皆で論じよと念を押す。『論語』の有子の言葉も、和を知ってただ和するだけで礼による節度がなければ、やはりうまくいかないと続いている。
【この言葉のその後】
ここでいう「憲法」は近代国家の憲法とは違い、守るべき道徳的規範に近い。ある国語辞典は、十七条は天皇を中心とする中央集権国家をめざすもので、大化改新の政治的理念となり、後代の法典編纂にも多くの影響を与えたと説明する。成立そのものを疑う見方もある。江戸後期の国学者の狩谷棭斎や、明治から昭和にかけての歴史学者の津田左右吉は、『日本書紀』の撰者らがのちに偽作したものとみた。その根拠はあまり有力とはいえないと評する百科事典がある一方、聖徳太子の真撰かどうかに確固とした定説は無く、第十二条の「国司」の語には後の書き換えをうかがわせる面があるとしつつ、原形は推古朝に成立したとみるのが妥当だとする百科事典もある。作者をめぐる議論は決着していない。