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スワンプマン:沼から出てきたのは、その人ですか

落雷で消えた人と、偶然まったく同じ体ができあがる。記憶も体も同じなのに、なぜ別人に思えるのか。

沼に立つ枯れ木に雷が落ち、そばにいた人が消えた同じ瞬間、まったくの偶然で、その枯れ木がまったく別の分子から、分子ひとつまで同じ体に変わった。その体は元の人の記憶をすべて持ち、家に帰って、翌日から同じ仕事を続けます。

誰も違いに気づきません。本人も気づいていません。

まずは選んでみてください。

まず、選んでみる

沼に立つ枯れ木に雷が落ち、そばにいた人が消えました。まったく同じ瞬間、偶然に、その枯れ木がまったく別の分子から、分子ひとつまで同じ体に変わりました。その体は元の人の記憶をすべて持ち、何ごともなかったように家へ帰ります。

沼から出てきたのは、その人ですか。

正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。

この問いを作った人

アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが1987年に出した例です。分解して別の場所で組み直す転送装置の問いと似ていますが、狙いが違います。

転送装置には情報を送るという因果のつながりがありました。スワンプマンにはそれが一切ありません。完全な偶然です。

デイヴィッドソンが問いたかったのは、人格よりもむしろ言葉の意味でした。スワンプマンが「家に帰ろう」と言うとき、その言葉に意味はあるのか。言葉の意味は、その言葉をこれまでどう使ってきたかの歴史から来ると考えるなら、歴史を持たないスワンプマンの発話は、音が似ているだけの何かになります。

4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている

かたちで決める。記憶も体も同じなら、それ以上に何が要るのか。いま目の前にあるものだけを見て判断する立場です。過去は現在に痕跡として残っているのだから、痕跡が同じなら同じでいい。

つながりで決める。過去とのつながりが一度切れている。ここが転送装置との分かれ目です。転送では情報が送られたので細い糸は残っていましたが、偶然の一致には糸すらない。ロックの記憶説を厳密に読むと、記憶とは「実際に経験したことを覚えている」ことなので、経験していない記憶は記憶ではありません。

素材で決める。偶然できたその体は、その人を作ってきた素材ではない。同じ原子でできていても、その原子がたどってきた道が違う。

まわりが認めるかで決める。家族が同じ人として迎えるなら、それでいい。この立場の強いところは、実際に社会がそう動くという点です。区別できないものを区別しない、というのは冷たい割り切りではなく、私たちが日々やっていることです。

「本物」を支えているのは、目に見えないもの

スワンプマンが不気味なのは、足りないものが一つも見つからないところです。

体は同じ。記憶も同じ。ふるまいも同じ。それでも何かが欠けている気がするなら、その何かは目に見えず、測ることもできず、本人にすら分からないものだということになります。

それを「歴史」と呼ぶかどうかが、この問いの分かれ目です。 歴史が本人を本人にしているなら、いま見えているものだけでは本人かどうか決められません。歴史は現在のどこにも写っていないからです。

いま、この問いが出てくる場所

生成AIが、ある作家の文体をそっくりに再現したとします。読者は区別できません。それでも「その作家の作品ではない」と言いたくなるなら、あなたは歴史の側に立っています。

同じことは、贋作にも、復元された建築にも、故人を模したAIにも起きます。見分けがつかないものに違いがあると言うためには、見えないものを持ち出すしかありません。 その持ち出しが正当なのかどうかを、スワンプマンは正面から突いてきます。

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