脳を左右に分けて、二人の体に移植する。二人とも目を覚まし、二人とも同じ記憶を持ち、二人とも自分こそが本人だと言う。
どちらかを選ばなければならないとしたら、何を根拠に選ぶのでしょうか。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
事故で体を失った人の脳を、左右に分けて二人の体へ移植しました。手術は成功し、二人とも目を覚まします。二人ともその人の記憶を持ち、二人とも自分こそが本人だと言っています。
本人は、どちらですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
イギリスの哲学者デイヴィッド・ウィギンズが1967年に出した例を、同じくイギリスの哲学者デレク・パーフィットが1971年の論文で本格的に論じました。土台には実際の医学があります。
てんかんの治療で左右の脳をつなぐ部分を切断した患者に、奇妙な症状が現れることが1960年代に報告されました。右手と左手が別のことをしようとする。 中央を見つめたまま左の視野に一瞬だけ見せた言葉を、口では言えないのに左手では書ける。一人の中に二つの意識があるように見える例が、実際に記録されています。
つまりこれは完全な空想ではありません。分けられる可能性が現実にあることを踏まえた上での問いです。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
つながりで決める。二人とも本人だ。どちらにも記憶も人格もつながっている。素直な答えですが、代償があります。一人だった人が二人になれるなら、「同じ人」は数えられるものではなくなります。 一人が一人でいられる保証が消えます。
素材で決める。どちらも本人ではない。一人だった人は、分かれた時点で終わっている。すっきりしていますが、片方だけを移植した場合には「本人が生き残った」と言いたくなるはずです。同じ手術で、もう一方を捨てたら本人が残り、両方使ったら本人が消える。 これは奇妙です。
まわりが認めるかで決める。周りが本人として扱ったほうだ。中身が同じなら、外側の関係でしか差がつかない。相続や戸籍を実際に処理するなら、社会はこの立場を取るしかありません。
決めない。一人が二人になれないという思い込みのほうを疑うべきかもしれない。パーフィット自身がここに近い答えを出しました。同一性は生き残りの本質ではない、と。大事なのは記憶や性格がどれだけ受け継がれたかであって、それは程度の問題だから、一人か二人かを決める必要はない。
「どちらが本人か」に答えが無いと、何が困るのか
実は、そこがパーフィットの狙いです。
答えが無くて困るのは、私たちが同一性に重いものを載せすぎているからではないか。責任、所有、死のこわさ。どれも「この私が続くかどうか」を前提にしています。
もし本人かどうかに答えが無いなら、それらの前提も揺れます。死がこわいのは、私が途切れるからです。 けれど途切れるかどうかに答えが無いなら、こわさの置きどころも変わってくるかもしれない。
パーフィットは、この結論を解放だと書きました。自分の同一性への執着が薄れて、生きやすくなったと。
いま、この問いが出てくる場所
脳の分割移植は行われていません。ですが半球だけを切除する手術は実在します。てんかんの重い症例で、片方の半球の機能を止める処置が行われています。
失われた側にあった意識はどうなったのか。残った人は同じ人なのか。医療が進むほど、この問いは思考実験から実務に近づいていきます。