ソクラテスは言いました。悪いと知りながら悪をなす人はいない。 悪をなすのは、それが自分にとって良いと思い違えているからだ、と。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
ソクラテスは言いました。悪いと知りながら悪をなす人はいない。悪をなすのは、それが自分にとって良いと思い違えているからだ、と。
悪いと知りながら、悪いことをする人はいますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この主張の狙い
一見すると、世間知らずな主張に見えます。分かっていてやる人など、いくらでもいるではないか。
ですがソクラテスの言い分は、もう少し込み入っています。彼が想定している「知る」は、情報として知っていることではありません。
たとえば、健康に悪いと知りながら夜更かしする人。この人は本当に「知って」いるのでしょうか。 知識として知ってはいる。ですが、その害を我がこととして分かっていたら、手が止まるはずだ。
知るとは、行動を変えるところまで含む。 そう定義すれば、この主張は成り立ちます。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
経験を信じる。分かっていてもやめられないことは、いくらでもある。アリストテレスの立場に近く、彼はソクラテスに正面から反論しました。現に見えていることに反する、というのが彼の理由です。意志の弱さは実在する、と。
定義を疑う。本当に分かっていたなら、やらないはずだ。ソクラテスの答えです。行動が変わらないなら、それは知っていることにならない。
自分の得で決める。罰を受ける覚悟で、損得を計算して選ぶ人がいる。割に合うと踏んで踏み切る人の存在を認める立場です。
決めない。知っているとはどういう状態かが、はっきりしない。論点をそのまま指している答えです。この議論は、知るという言葉の意味にかかっています。
アリストテレスの反論
アリストテレスは、師の師にあたるソクラテスのこの主張を、現に見えていることに反するとして退けました。ただし議論の最後では、ソクラテスの言い分にも理があると認めています。
彼の分析は具体的です。人が知りながら過つとき、知識が眠っている状態にある。 酔っているとき、怒っているとき、欲望に駆られているとき。知識はあるのに、その場で使われていない。
知識を持っていることと、その場でそれを働かせることは別だ。 この区別が、意志の弱さを説明します。
そして彼は、徳を知識ではなく習慣に置きました。知っているだけでは足りない。繰り返して身につけるしかない。
ニーチェは、まったく別の見方をしました
ニーチェは、この議論の前提そのものを疑いました。善悪の判断が、そもそも誰かの利害から生まれたものではないか、と。
彼の見立てでは、道徳は弱い者が強い者を縛るために作った装置でもあります。だとすれば「悪と知りながら」という言い方自体が、すでに一つの立場に立っています。
ソクラテスは悪を無知の問題に、アリストテレスは習慣の問題に、ニーチェは力の問題にしました。 同じ現象への、三つの別の説明です。
いま、この問いが出てくる場所
教育や更生の考え方は、この分岐点の上にあります。
悪が無知なら、教えれば直ります。 悪が習慣なら、環境と繰り返しを変える必要があります。悪が力関係なら、そもそも何を悪と呼ぶかから疑うことになります。
どれを取るかで、やるべきことがまったく変わります。