体に悪いと分かっていて、やめようと決めたのに、また手が出ます。知識は十分にあり、決意もしたはずなのに、行動が続きません。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
体に悪いと分かっていて、やめようと決めたのに、また手が出ます。知識は十分にあり、決意もしたはずなのに、行動が続きません。
この人は、本当にやめたいと思っていますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いに正面から答えた人
アリストテレスです。ギリシャ語でアクラシアと呼ばれ、自制心の欠如と訳されます。
彼がこの問題を扱ったのは、ソクラテスへの反論としてでした。ソクラテスは、知っていれば行うはずだと考えました。アリストテレスは、現に人は知りながら過つという事実から出発します。
彼の説明は、いまでも通用する精度を持っています。人が知りながら過つとき、知識が眠っている。酔った人が定理を暗唱できても理解していないのと同じで、口では言えるが、その場で働いていない。
知っていることと、その場でそれを使えることは別だ。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
経験を信じる。思うことと、できることは別だ。アリストテレスの立場で、意志の弱さの実在を認めます。彼は、現に見えていることに反するという理由で、ソクラテスの主張を退けました。
定義を疑う。本当にそう思っていたなら、やめられているはずだ。ソクラテスの立場です。厳しく聞こえますが、行動が変わらない決意を決意と呼ぶのか、という問いは重い。
状況で決まる。同じ場面に置かれれば、たいていの人はそこで崩れる。近年の行動科学に近い答えです。意志の量ではなく、環境の設計が効くと考えます。目につく場所に置かない、その時間に別の予定を入れておく。効くのはそういう手当てのほうです。
決めない。本人の中で起きていることを、外から言えない。謙抑的な答えですが、責任の話をするときには足場が弱くなります。
アウグスティヌスは、自分のこととして書きました
4世紀から5世紀にかけて生きたアウグスティヌスは、この問題を理論としてではなく、自分の告白として書きました。
若いころの彼は、清く生きたいと願いながら、そうできませんでした。その葛藤を、意志が二つに割れている状態として記述します。 望んでいるのに望めない。命じているのに従わない。
そして彼は、この分裂は自力では解けないと結論しました。神の側から差し出される助けが要る。 彼はそれを恩寵と呼びました。
アリストテレスは習慣で解こうとし、アウグスティヌスは自力では解けないとした。 同じ現象への、対照的な処方です。
意志の量では、たぶん解けません
近年の研究が示しているのも、アリストテレスに近い方向です。
決意を強く持つことより、決意が要らない形を作るほうが効きます。 目に入る場所に置かない。手続きを一つ増やす。始める時刻を固定する。
これは意志の敗北ではなく、意志の使いどころを変えることです。その場で我慢するのに使うのではなく、我慢しなくて済む形を先に作るのに使う。
スピノザも、感情は別の感情によってしか抑えられないと書きました。 理性で命じるだけでは動かない、という点で、この系譜はつながっています。
いま、この問いが出てくる場所
依存、先延ばし、生活習慣。どれも知識の不足では説明できません。 情報はもう十分にあります。
だから対策は、教えることから設計することへ移りつつあります。アリストテレスが2300年前に、知識と習慣を分けた地点から、実はあまり遠くまで来ていません。