王が僧に尋ねます。車とは何か。
車輪が車か。違う。軸が車か。違う。座席が車か。違う。ひとつずつ指していくと、そのどれもが車ではありません。では車はどこにあるのか。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
王が僧に尋ねました。車とは何か。車輪が車か。軸が車か。座席が車か。ひとつずつ指していくと、そのどれもが車ではありません。では部品を全部ばらして並べたら、そこに車はあるでしょうか。
車は、どこにありますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
紀元前2世紀ごろ、ギリシア系の王メナンドロス(ミリンダ王)と、僧ナーガセーナの対話として伝わっています。
王が先に僧の名を尋ね、僧は「ナーガセーナと呼ばれていますが、そこに『私』という実体はありません」と答えます。王が反発すると、僧は逆に問い返しました。王はここへ車で来られた。その車とは何ですか。
王は答えられません。そこで僧が言います。部品が組み合わさっているところに「車」という呼び名がつくだけで、車という実体があるわけではない。私も同じです。
これが仏教の無我です。テセウスの船とよく似た形をしていますが、向かっている先が逆です。テセウスの船は「本物はどちらか」を探します。ミリンダ王の車は「探しても無い」を示します。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
かたちで決める。組み上がり方のなかにある。並べただけでは車ではない。アリストテレスが質料と形相を分けたときの、形相のほうを本体とみなす立場です。中世のスコラ哲学では、これが標準的な答えでした。
素材で決める。部品そのもののなかにある。全部そろっていれば車だ。分かりやすいのですが、ばらばらに並べた部品を指して「これが車です」と言うのは、やはり無理があります。
まわりが認めるかで決める。そう呼ぶ約束があるだけで、実体は無い。これが僧の答えです。 名前は便宜的な取り決めで、対応する何かが世界の側にあるわけではない。この考えを徹底させたのが、2世紀ごろの僧ナーガールジュナ(龍樹)です。あらゆるものは他との関係のなかでのみ成り立つと論じました。名前が似ていますが、対話に出てくるナーガセーナとは別の人です。
暮らしで決める。人が車として使っているあいだ、そこにある。実体を探すのをやめて、働きのほうを見る立場です。プラグマティズムに近く、僧の答えとも遠くありません。
「無い」と言われても困らないのはなぜか
僧の答えは、初めて聞くと乱暴に感じます。車は目の前にあるではないか、と。
ですが僧は車が使えないとは言っていません。乗れるし、走るし、王はそれで来ました。否定されているのは、部品とは別に「車そのもの」という何かがどこかにある、という考えのほうです。
便利に使えることと、実体があることは、別のことです。 この二つを混ぜないでおくのが、この問いのねらいです。
自分に当てはめると、話が変わります
車で終わるなら、ちょっとした言葉遊びです。僧はそれを人に当てはめました。
体も、感覚も、記憶も、それぞれは私ではありません。では私はどこにいるのか。組み合わせに付いた呼び名だとしたら、守るべき「私」というものは、そもそも無いことになります。
仏教が執着を手放せと説くのは、道徳の話ではなく、この分析の帰結です。 無いものを守ろうとするから苦しい、という筋道になっています。
実体が無いと言われた車は、それでも王をここまで運んできました。私も同じだとすれば、「私」が無いことは、何かを失うことではありません。 失うものが、最初から無いという話です。