二人がそれぞれ、嫌っている相手に菓子を渡しました。
一人は毒を入れるつもりで、間違えて無害な粉を入れ、相手は何ともありませんでした。もう一人は普通の菓子を渡しましたが、相手に強いアレルギーがあり、入院しました。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
二人がそれぞれ、嫌っている相手に菓子を渡しました。一人は毒を入れるつもりで、間違えて無害な粉を入れ、相手は何ともありませんでした。もう一人は普通の菓子を渡しましたが、相手に強いアレルギーがあり、入院しました。
責められるべきなのは、どちらですか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
道徳的運という問題
この食い違いは、道徳的運と呼ばれます。哲学者トマス・ネーゲルとバーナード・ウィリアムズが1976年に論じて広まりました。
問題はこうです。私たちは、本人にコントロールできないことで人を責めるべきではないと考えています。生まれや才能で責めるのは不当だ、と。
ところが実際には、運の違いで扱いを変えています。
酒を飲んで運転した二人がいて、片方はたまたま人をはねた。もう片方は誰にも会わなかった。やったことは同じなのに、罪の重さはまったく違います。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
何に使うかで決める。毒を入れようとしたほう。何をしようとしたかで決まる。カントの立場に近く、道徳的価値は結果でなく意志にあると考えます。
起きたことで決める。入院させたほう。実際に何が起きたかで決まる。結果責任で、法律の多くはこちらを採っています。
運の分は数えない。どちらも同じくらい。運の違いを責任に数えるべきではないという、いちばん筋の通った原則です。ただしこれを徹底すると、未遂と既遂を同じに扱うことになります。
決めない。意図と結果は別の物差しで、一つにまとめられない。ネーゲルの結論に近い答えです。彼は、この矛盾は解消できないと考えました。
法律も、この矛盾を抱えています
殺人未遂と殺人では、刑が違います。やったことも、意図も同じなのに、結果だけが違う。
理屈で言えば、運で刑を変えるのはおかしい。それでも変えているのは、社会が結果に反応するからです。
逆に、意図をまったく見ないわけでもありません。過失致死と殺人は、結果が同じでも大きく違います。
つまり法は、意図と結果の両方を見て、そのつど重みを変えています。 一貫した原理があるわけではありません。
一貫させると、どちらも不自然になります
意図だけで決めると、心の中を裁くことになります。 誰も傷つけていない人を、思っただけで罰することになる。
結果だけで決めると、運が良ければ許されることになります。 同じ危険なことをして、たまたま何も起きなかった人が無罪になる。
どちらも極端で、だから私たちは中間にいます。 そしてその中間に、原理はありません。
いま、この問いが出てくる場所
企業の不祥事でも、事故が起きたかどうかで扱いがまったく変わります。同じ手抜きでも、無事故なら注意で済み、事故が起きれば刑事事件になります。
安全の分野では、この不均衡を正すためにヒヤリハットの報告が制度化されています。結果が出なかった危険も同じように扱う。
運を責任から切り離す試みは、実際に行われています。 ただし完全には成功していません。