『私はなぜキリスト教徒でないか』
わたしはなぜきりすときょうとでないか
現代
ラッセルによる近代世俗主義の古典的宣言
この著作について
バートランド・ラッセルが1927年3月に南ロンドンの国民世俗主義協会で行った講演の表題作を中心に、宗教と倫理にかかわる諸論文を集めた論集。英語圏では近代世俗主義の古典として繰り返し版を重ねてきた。
【内容】
表題講演ではキリスト教徒であることの条件を「神の存在」と「キリストの至高性」に絞り、アクィナスの五つの道、目的論的証明、道徳的証明の各論証を一つずつ論駁する。続いてイエスの人物像、地獄の教義、教会の歴史的害悪を検討し、宗教を支えるのは恐怖であるとする結論に至る。論集としては「宗教と科学」「自由思想家の十戒」など、ラッセル的な理性と諧謔《かいぎゃく》の文章が並ぶ。
【影響と意義】
1948年の改訂版で英米の無神論論争を活性化させ、その後のドーキンス、ヒッチェンズ、ハリスら「新無神論」の直接の先駆となった。日本でも長く版を重ね、宗教批判の入口として読み継がれている。
【なぜ今読むか】
信仰と理性、道徳と宗教の関係を、感情的な反宗教ではなく論証の積み重ねで考える手本。信じるか否かに関わらず、議論の作法を学ぶ一冊である。
どの訳で読むか
表題講演だけを読むなら、市井三郎訳を収める河出書房新社の「世界の大思想」ワイド版が、紙のオンデマンド本でも電子書籍でも手に入る。論集まるごとの邦訳には大竹勝訳があるが、邦題は「宗教は必要か」で、原著とは構成が違い、コプルストン神父との討論は訳されていない。こちらは古い本で、図書館や古書で探すことになる。
市井三郎訳(表題講演のみ)河出書房新社・ワイド版世界の大思想 第2期13「ラッセル」、2005年
Amazonで探す収録は表題講演だけで、論集のほかの篇は入らない。同じ巻には、市井訳の社会改造の諸原理、自由人の信仰、歴史を読むことと理解することの三篇と、中村秀吉訳の数理哲学入門が入り、講演を含めて全五篇になる。原本は1966年刊の「世界の大思想」第26巻である。版元の注文ページはオンデマンド本として在庫ありと表示している(2026年10月時点)。電子書籍は2014年5月に出ている。
大竹勝訳荒地出版社、1959年(増補改訂版1968年、再増補版1975年)
Amazonで探す邦題は「宗教は必要か」。原著の論集をもとに順番を変えて訳したもので、最初に表題講演が置かれる。「自由人の信仰」を加える一方、コプルストン神父との討論を含む5篇は訳されていない。初版は201頁。1968年の増補改訂版は2編を足して訳者解説とラッセル年表を付け、245頁になった。1975年の再増補版は253頁で、さらに1編が加わった。国立国会図書館の目録で確認できる最後の刷は1977年5月である。
さらに深く
【内容のあらまし】
1957年にポール・エドワーズが編んだ論集で、エドワーズの編者序文とラッセルの序文、表題作を含む15篇、エドワーズによる付録からなる。序文でラッセルは、近年自分が宗教上の正統への反対を和らげたという噂をまったく根拠がないと打ち消し、仏教、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教、共産主義をいずれも誤りで有害だと述べる。
表題の講演は1927年3月にロンドンのバタシー市庁舎で行われた。ラッセルは、善い生き方をしようとする人をみなキリスト教徒と呼ぶなら、仏教徒や儒教徒は善く生きようとしていないことになると、その緩い用法を退ける。最低の条件は、神と霊魂の不死を信じ、キリストを神でないにしても最も善く最も賢い人間と信じることで、地獄の信仰は含めない。そのうえで、なぜ神と不死を信じないのか、なぜキリストを最も善く最も賢い人間とは考えないのか、の二つを語ると予告する。
神の存在証明は第一原因論から入る。18歳のとき『ミル自伝』で、「誰が私を作ったか」という問いにはすぐ「誰が神を作ったか」が続くとミルが父に教わったという一文を読み、この議論の誤りに気づいたという。自然法則の議論には、星の果てでも1ヤードは3フィートだという例を挙げる。設計論には、ウサギの尾が白いのは撃ちやすくするためだという説を持ち出す。来世で正義が回復されるという議論には、オレンジの箱の上段がみな悪ければ、下は良いはずと考えず荷全体が悪いと考えるだろうと答える。人が神を信じる本当の理由は論証でなく、幼いころからの教えと、頼れる兄貴分がほしいという願いだと言う。
キリストについては、人を裁くなという教えを認める一方、再臨が同時代人の存命中に来ると考えた点は賢くないとし、地獄を説いたこと、悪霊を豚の群れに送り込んだこと、実のなる季節でもないのにいちじくの木を呪ったことを挙げて、知恵と徳ではブッダとソクラテスを上に置く。結びは、恐怖は残酷さの親であり、良い世界には知識と思いやりと勇気が要るというものだ。
論集の後半に1948年のBBC放送の討論が入る。冒頭でラッセルは自分の立場を不可知論だと答える。コプルストン神父が偶然的な存在から必然的な存在を導く議論を出すと、宇宙はただそこにあるだけだと答え、人間には誰にも母親がいるが人類に母親はいないという例で応じる。付録は、ラッセルが哲学教授に任命されながらニューヨークのシティ・カレッジで教えられなかった経緯をたどる。
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