『幽玄とさびの美学』
ゆうげんとさびのびがく
西村清和·現代
幽玄とさびを俊成・定家・世阿弥・芭蕉のテクストから美学的に問いなおす日本的美意識論
この著作について
西村清和《にしむらきよかず》(1948年生まれ、東京大学名誉教授)が2021年に勁草書房から刊行した、日本的美意識論を再考する一冊である。日本の芸能や文学を規定する美意識として機能してきた「幽玄」と「さび」をとりあげ、俊成や芭蕉の歌論・俳論に照らして、その実質を美学的観点から検討する。
【内容】
序章は「日本的美意識」と題し、幽玄と象徴、芭蕉の「象徴主義」などをとりあげる。第1章は俊成の幽玄で、歌合の評語、余情と幽玄などの項目が並ぶ。第2章は俊成の艶で、『源氏物語』の艶、感覚語と感情語などを扱う。第3章は定家の妖艶と世阿弥の幽玄を論じ、余情妖艶と新古今調新風、本歌・本説取りなどが続く。第4章は芭蕉の「さび」で、俳諧の笑い、貞門と談林、切字と疎句化、俳諧の誠、「さびしほり」などの項目がある。
【影響と意義】
本書が問題にするのは、作品当時の文脈と近代以降の再発見・再評価とのあいだで、意味やニュアンスを微妙に変えながら「日本的美意識」と呼ばれてきた観念である。幽玄やさびに関わる論文をテクストに照らして検証し、曖昧なままにされてきた価値基準を美学の立場から問いなおす。あわせて「日本的なるもの」の有効性を批判的に検証することも掲げる。叢書には属さない単行書である。
【なぜ今読むか】
「日本的美意識」の価値基準が曖昧なままにされてきたと見る本書は、俊成、定家、世阿弥、芭蕉のテクストに照らして幽玄とさびの実質を確かめ直す。作品当時の文脈と近代以降の再評価の両方から、これらの語を考えたい読者に向く一冊である。
さらに深く
【内容のあらまし】
序章「日本的美意識」は、幽玄やわび・さびは世阿弥の能や利休の茶道、芭蕉の俳諧がそれぞれに理想とする美の理念をあらわし、それゆえ日本に固有の精神の真髄だ、という通念から書き起こされる。「わび・さび」と聞けば茶室や竜安寺の石庭が浮かび、薪能《たきぎのう》のポスターには「明神能幽玄の花」、紅葉まつりのポスターには「闇夜を染める幽玄な夜もみじ」といった文句が並ぶ。夜もみじの例は、闇夜に浮かぶ紅葉の姿が、もともと「暗さ」を意味する漢語「幽・玄」の響きに合うからだろうと著者は推す。なんとなくわかった気がする言葉も、意味を正確に言おうとすると輪郭を失い、謎めいた呪文のようになってしまう。そこで、これらの語がいつ、どのように使われ、どうして能や俳諧と結びついたのかを、簡略にでもたどる必要があると著者は言う。序章は4節からなり、冒頭の「幽玄と象徴」に続いて、芭蕉の「象徴主義」、能と新古今集、「日本的なるもの」を題に掲げる。
第1章は俊成《しゅんぜい》の幽玄を扱い、歌合《うたあわせ》の評語、余情と幽玄、判定のことばである判詞《はんし》における幽玄を経て、最後の節で美的概念を論じる。第2章は俊成の艶《えん》に移り、『源氏物語』の艶から説き起こして、判詞における艶を経て幽玄と艶の関係に至る。第3章は定家《ていか》の妖艶と世阿弥の幽玄を扱う9節からなり、余情妖艶と新古今調の新風から入り、本歌取り・本説取り、三句切れ、物語りと描写、景と情の照応と象徴、気分象徴と象徴主義へと進んで、定家以後と世阿弥の幽玄に行き着く。第4章は芭蕉の「さび」を扱う10節からなり、俳諧の笑いから始まる。貞門《ていもん》と談林《だんりん》を経て蕉門《しょうもん》の連句と芭蕉の発句へ進み、切字《きれじ》と疎句化、「取合せ」と「とりはやし」、主体の出現、俳諧の誠を論じたあと、「さびしほり」、そして「フモールと苦微笑」に至る。終章の題は、省略語としての「日本的なるもの」である。
あとがきによれば、幽玄は著者にとって学生時代以来の宿題だった。美学を始めたばかりのころ、能に興味があって能楽堂に通い、能の幽玄を論じていそうな論文や本を読んだが、結局その意味はわからなかった。以来、時代を超えた「日本的なるもの」を想定する主張には違和感を抱き続けてきたという。本書はその違和感のありかを、語が実際に使われた文脈をたどって明らかにしようとする。議論の多くは日本文学研究者たちの成果に負うと認めたうえで、感覚特徴と美的質、象徴と暗示、発話主体と語りの視点といった美学の論点を携えて、その蓄積に美学者として加わろうとする。