『破戒』
はかい
島崎藤村《しまざきとうそん》·近代
島崎藤村の社会小説
この著作について
詩人から小説家へ転じた島崎藤村《しまざきとうそん》が自費出版で世に問うた長編で、日本自然主義文学の出発点にして社会小説の代表作。
【内容】
主人公は信州飯山の小学校教師・瀬川丑松《せがわうしまつ》。被差別部落の出身であり、父からは「身分を決して明かすな」という戒《いましめ》を厳しく命じられて育ってきた。丑松は同じ出自を持つ思想家・猪子蓮太郎《いのこれんたろう》に密かな尊敬と同類の苦しみを感じながら、教え子や同僚、恋する女性お志保にも真実を隠し続ける。やがて猪子の暗殺事件が起こり、丑松は長年守ってきた戒を破って生徒たちの前で自らの出自を告白する。教職を辞したのち、テキサスへ渡る船に乗って物語は閉じられる。
【影響と意義】
発表当時から夏目漱石や二葉亭四迷《ふたばていしめい》に高く評価され、日本近代文学に「社会問題を正面から引き受ける小説」の道筋を開いた。のちに藤村自身が戦後の社会状況のなかで本文を改稿したことも知られ、部落問題をめぐる表現と受容の歴史のなかでも重要な位置を占めている。
【なぜ今読むか】
出自、病、性的指向、精神の困難など、今もなお「明かすか隠すか」を個人が迫られる場面は絶えない。カミングアウトに至るまでの苦しみと、告白後の人生の描き方は、現代の当事者運動を考える際にも生きた参照点となる。
さらに深く
【内容のあらまし】
全23章。幕開けは信州飯山の真宗の寺、蓮華寺《れんげじ》の二階の角部屋だ。丑松は、部落の出と噂された大日向《おおひなた》が病院に続いて宿からも追われる騒ぎを見て、急に下宿を替える。丑松自身も同じ出自で、父から素性を隠せと戒められている。彼は手元の四十銭で、出自を公言して戦う思想家猪子の新著「懴悔録」を買ってしまう。
寺には、恩給に半年足りないまま退職する老教師、風間敬之進《かざまけいのしん》の娘お志保が引き取られており、丑松は彼女を思うようになる。学校では校長が、郡視学や、その甥で新任の勝野文平《かつのぶんぺい》と図り、生徒に慕われる丑松を遠ざけようとしている。
天長節の夜、宿直中の丑松は暗がりから呼ぶ父の声を聞き、翌朝、父の死を知らせる電報を受け取る。帰郷の列車で、療養帰りの猪子と、代議士候補の弁護士市村に会う。同じ列車には、候補の高柳利三郎も乗っている。父は烏帽子ヶ嶽《えぼしがだけ》のふもとの牧場で種牛に突かれ、「忘れるな」の一言を遺していた。
根津を訪ねた猪子は、高柳が部落の富豪六左衛門の娘と隠れて結婚したと語る。丑松は打ち明けようとして言えず、上田で父を突いた牛が屠《ほふ》られる場では、親を捨てる気かと自分を責める声を胸に聞く。駅で猪子と別れるまで、ついに言えない。
帰りの舟には新妻連れの高柳がいた。翌朝、高柳は蓮華寺を訪ねて互いに口をつぐもうと畳に手をつくが、丑松は猪子との関係まで否定し、無関係だと突っぱねる。文平は、代議士の候補者から聞いた話として丑松の素性を校長に耳打ちする。職員室で猪子を下等人種と呼ぶ文平に丑松が皮肉で言い返すと、かえって自白と受け取られる。お志保は住職に言い寄られて寺を出る。
飯山の演説会で高柳の秘密を暴いた猪子は、一足先に宿へ帰ろうとして、法福寺の門前で襲われて死ぬ。高柳は壮士たちと警察に引かれていく。猪子の死に、丑松は素性を社会に告白する決意を固める。翌日、進退伺を書いた丑松は、受け持ちの高等四年の教室で素性を明かし、隠していて済まなかったと父母に伝えてほしいと頭を下げ、板敷にひざまずく。生徒たちの引き留めの願いは、手続きを踏めと退けられる。
丑松はお志保を訪ねて素性を打ち明け、お志保は丑松の親友土屋銀之助に、一生を丑松に寄せる覚悟を洩らす。市村は、テキサスで農業を始める大日向が教育のある青年を探していると丑松に伝える。霙《みぞれ》の降る出発の朝、お志保や生徒たちが見送りに集まり、蓮華寺の鐘が七つ鳴る。校長の使いが生徒を止めに来るが、丑松は猪子の未亡人とともに遺骨の橇《そり》を先頭に飯山を発つ。