『俳優に関する逆説』
はいゆうにかんするぎゃくせつ
近代
名優ほど冷静であるべきと論じた演劇理論の金字塔
この著作について
ドゥニ・ディドロが1769年から70年にかけて執筆し、死後の1830年に公刊した対話篇の演劇論。副題は「役者論」。伝統的な「役者は自分の感情によって演じる」という考えに対し、「優れた役者こそ感情に流されず、役を冷静に設計する」という大胆な命題を提示した、演劇理論の古典である。
【内容】
二人の匿名の話者の対話形式で進み、ディドロ自身に近い「第一の話し手」が、舞台上で本当に泣いたり怒ったりする役者は凡庸であり、毎晩同じ質で名演を繰り返すためには、自分の情感ではなく役の設計図を演じる必要があると主張する。当時の名優ル・カン、ガリック、クレーロンらの舞台を分析し、顔・声・身ぶりを精密に計算する俳優術を演劇の到達点として描く。自然主義的演技を無条件に称揚する同時代の風潮への根本的批判でもある。
【影響と意義】
ブレヒトの「異化効果」やスタニスラフスキー/ストラスバーグの「メソッド演技」との論争の原点として、現代演劇理論のほぼすべての流派が本書を経由して自らの立場を定める。映画理論・演技論の古典として今も必読である。
【なぜ今読むか】
共感・演技・AIによる生成表現を考える現代、「感情の設計」の問題を根本から問い直す素材として効く。
さらに深く
【内容のあらまし】
対話は「もうその話はやめましょう」の一言で始まる。第一の話し手は、相手の友人の俳優論に触れたがらないが、迫られて、文体はもつれて中身はありふれていると切り捨て、偉大な俳優の条件を挙げる。豊かな判断力、冷静な観察者の目、洞察力、そして感受性はゼロ。聞き返されても「ゼロ」とだけ答える。
最初の論拠は再演である。感じやすい俳優は、初日に熱くても三日目には大理石のように冷える。一方クレーロンは六回目の上演で、台詞と同じく演技の細部まで覚えている。自分を包む大きな人形の魂となって演じ、目を閉じて演技をたどるとき、小さなクレーロンと偉大なアグリッピーナの二人になる。何を言うかもわからないまま舞台へ上がり、それでも崇高な瞬間を迎えるデュメニルとは違う。やがて主張は定式になる。極端な感受性は凡庸な俳優を、中ほどの感受性は大勢の下手な俳優を、感受性の完全な欠如が崇高な俳優をつくる。
逸話が続く。憎み合う役者の夫婦が、モリエールの恋人どうしの場面を罵り合いを挟みながら演じ、客席の喝采で十回も止められた。ガリックは扉の隙間から顔を出し、四、五秒で有頂天から絶望まで表情を下り、元まで上ってみせた。スデーヌの劇が大当たりした翌朝、ディドロは駆けつけて抱きつき泣いたが、スデーヌは身じろぎもせず「ディドロさん、あなたは美しい」と言った。前者は感じやすい凡庸な人、後者は観察者の天才だという。ニニアス役のル・カンは、母を手にかけ血まみれで父の墓から出た直後、女優の耳から落ちたダイヤの耳飾りを足で袖へ押しやる。第一の話し手は、演劇は窮余の策だと断じ、自分も若いころソルボンヌか劇場かで迷ったと打ち明ける。
終盤、第二の話し手が、我を忘れるまれな瞬間だけは天性の感受性に任せてはと妥協を持ちかけると、第一の話し手は、そうした瞬間は美しいほど役の残りと不協和を起こすと退ける。二人は芝居を見に出かけるが席がなく、チュイルリー公園を黙って歩く。第一の話し手は独り言のように、感受性に身を任せた名優が人を酔わせうるのは台詞回しの体系を出ない限りだと認めつつ、美しい瞬間と美しい役のどちらを選ぶのかと問う。手本は自然の人間、詩人の人間、俳優の人間の三つで、最も誇張された俳優のものは、詩人の手本の肩に乗り、柳で編んだ大きな人形に入ってその魂となるという。
対話はなお続く。独白を聞かず夢想していたと言う第二の話し手が、亡き息子の骨壺を抱いて舞台に立った古代の俳優の話を持ち出すと、第一の話し手は、観客を動かしたのは演技ではなく父の姿だと退け、弁論家も怒りを真似るときこそ人を動かすと説く。「もう遅い、夕食にしよう」で終わる。
著者
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