『悲哀とメランコリー』
ひあいとめらんこりー
近代
喪とうつ病を対比し後期精神分析の基礎を据えたフロイト論文
この著作について
ジークムント・フロイトが1917年に公刊した論文(原題『喪とメランコリー』)。第一次世界大戦期に書かれ、愛する対象を失うという普遍的経験を正常な「喪」と病理的な「メランコリー(うつ病)」に分けて分析した、後期精神分析理論の出発点となる著作である。
【内容】
喪とメランコリーはいずれも愛する対象の喪失を契機に発動するが、前者では現実検証を経て徐々にリビドーを対象から撤退させ健康な状態に復するのに対し、後者では撤退したリビドーが自我の内部の同一化された対象像へと転位され、自我自身が攻撃対象となる。これが無価値感・自責・自殺衝動といった臨床像の説明となる。自我内部に対象を取り込み、その対象との関係を内化するという構造論的洞察は、後の『自我とエス』(1923)における超自我概念の胚芽となる。
【影響と意義】
現代うつ病理論、対象関係論、クラインの抑うつポジション論、ボウルビィのアタッチメント論、グリーフケアなど、精神医学と臨床心理学の広範な分野の理論的基盤を提供した古典論文。
【なぜ今読むか】
愛する人・価値・物語を失う経験を、人間精神の構造変化として捉える最初の理論として、現代の心のケアに直結する。
どの訳で読むか
訳題は二通りあり、十川訳、中山訳、伊藤訳は「喪とメランコリー」、井村訳と加藤訳は「悲哀とメランコリー」としている。文庫で手軽に読むなら十川訳か中山訳で、文庫のうち同じ1915年に書かれたメタサイコロジーの論文とまとめて読めるのは十川訳になる。解題つきの全集版で読むなら伊藤訳が目安だ。
十川幸司訳講談社・講談社学術文庫、2018年
Amazonで探す題は「喪とメランコリー」。書名は「メタサイコロジー論」で、232ページ。フロイトが1915年に書き、1冊の本にまとめるつもりだった論文のうち、現存する5篇と1983年に見つかった草稿1篇を収める。欲動、抑圧、無意識をめぐる同じ時期の論文と並べて読める。巻末に訳者解題と訳者あとがきがつく。電子版もある。
中山元訳光文社・光文社古典新訳文庫、2008年
Amazonで探す題は「喪とメランコリー」。書名は「人はなぜ戦争をするのか」(副題はエロスとタナトス)で、アインシュタインの問いに答えた書簡を表題にしたフロイトの論集に入っている。『精神分析入門』の続編にあたる講義から2講も収める。電子書籍もある。
伊藤正博訳岩波書店・フロイトの全集第14巻、2010年
Amazonで探す題は「喪とメランコリー」。1914年から15年の著作を集めた巻で、症例「狼男」や同じ時期のメタサイコロジーの論文と並び、巻末に解題がつく。函入りの単行本は版元で品切れと表示されているが(2026年10月時点)、2024年に岩波オンデマンドブックス版が出ている。
井村恒郎訳人文書院・フロイトの著作集第6巻、新装版2023年(初版1970年)
Amazonで探す題は「悲哀とメランコリー」。精神分析の基礎理論にかかわる19の論文を発表年代順に収めた巻で、『快感原則の彼岸』や『自我とエス』も入る。巻末に訳注と、小此木啓吾の解題およびメタサイコロジイ解説がある。1970年の版は版元で品切れ・重版未定と表示されているが(2026年10月時点)、2023年の新装版は電子書籍でも出ている。
加藤正明訳日本教文社・フロイドの選集第10巻(デジタル・オンデマンド版、2015年)
Amazonで探す題は「悲哀とメランコリー」で、著者名はフロイドと表記される。不安をめぐる論文を集めた巻で、巻末にあとがき、改訂版あとがき、再改訂に当っての一文がある。版元によれば、オンデマンド版は元の本よりひと回り大きく、文字も少し大きい。
さらに深く
【内容のあらまし】
フロイトは冒頭で、夢を正常な手本にした考察に続き、正常な感情である喪と比べてメランコリーの本質を照らしたいと述べる。材料は少数の症例だけなので、結論が一般に当てはまるとは主張しないとも断っている。
喪は、愛する人のほか、祖国や自由や理想のように人の代わりに据えられた抽象物を失ったときにも起こる。生活を大きく乱すが、時がたてば乗り越えられると信じているので、誰も病気として医者に任せようとは思わない。喪の仕事では、相手に結びついた思い出や期待の一つひとつが呼び起こされ、結びつきがほどかれていく。
メランコリーの引き金は死別に限らず、捨てられた婚約者のように、相手は生きているのに愛の対象としては失われている例もある。誰を失ったかは分かっていても、その人の何を失ったかが分からない例もあり、そこからフロイトは、失ったものが意識から外れている点で喪と違うのではないかと考える。喪では世界が貧しく空っぽになるが、メランコリーでは自我そのものがそうなる、と彼は書く。
自分を無価値だと責める患者に反論しても実りはない。その自己評価は、王子ハムレットが自分にも他人にも下した評価のように真実に近いことさえあり、フロイトは注で『ハムレット』の台詞を引く。ただし、そう言い立てる者は当たっていてもいなくても病気だという。鍵は、自責に辛抱強く耳を傾けると見つかる。いちばん激しい自責は、本人にはあまり当てはまらないことが多く、わずかに手直しすれば、本人が愛している、愛していた、愛すべき別の人に当てはまる。自分のような役立たずな妻に縛られた夫が気の毒だと声に出して嘆く女性は、実は夫の無能を責めている。患者の嘆き(Klagen)は、言葉の古い意味では告発(Anklagen)なのだ。失った相手を手放せない自我がその相手と一体化するさまを、フロイトは、対象の影が自我の上に落ちたと言い表す。
自殺と躁《そう》の話が続く。自我は自分を対象のように扱えるときにだけ自分を殺せるのであり、激しい恋と自殺という正反対の状況で、自我はどちらも対象に圧倒されている。躁は、長く抱えた心の負担が一挙に不要になったときの勝利にたとえられ、大金を得た貧乏人が例に挙がるが、自我には何に勝ったのかが隠されている。最後にフロイトは、メランコリーの三つの前提である対象の喪失、愛と憎しみの両価性、自我へのリビドーの退行のうち、躁にかかわるのは三つめだけだと絞り込む。前の二つは愛する人の死のあとの強迫的な自責にも見られるが、そこに勝利は残らないからだ。だがその先は、身体と心の痛みの仕組みが分かるまで先送りにされ、論は未完のまま閉じられる。
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