『自我とエス』
じがとえす
近代
エス・自我・超自我の三審級構造を確立した後期フロイトの理論書
この著作について
ジークムント・フロイトが1923年に公刊した、精神分析の構造論を確立した理論的著作。それまでの「意識・前意識・無意識」の局所論的モデルを再編成し、「エス・自我・超自我」の三審級モデルを提示した、後期フロイト思想の決定的転回点である。
【内容】
人格を、快感原則に従い欲動的エネルギーの貯蔵庫である「エス」、現実原則に従い身体と外界を媒介する「自我」、そして親との同一化を通じて形成される内的審級「超自我」の三つに分節する。自我は一方でエスの欲動圧、他方で超自我の道徳的要求、さらに外界の現実の三方向から圧力を受ける弱い存在だとされる。罪悪感の無意識性、自己処罰衝動、そして生と死の欲動の絡み合いが精密に論じられる。
【影響と意義】
ラカンの鏡像段階・象徴界論、対象関係論、自我心理学など、20世紀の精神分析諸派の出発点となった。フランクフルト学派の批判理論、ジュディス・バトラーのジェンダー論、トラウマ研究も同じ源流から分かれる。
【なぜ今読むか】
「なぜ自分は自分の思い通りにならないのか」という日常的経験を、最も鋭利な概念装置で解剖する古典。
どの訳で読むか
文庫で読めるのは中山元訳で、自我論にかかわるほかの論文とあわせて1冊に収める。全集で読むなら道籏泰三訳があり、2007年の単行本は品切れだが2024年のオンデマンド版がある(2026年10月時点)。著作集の1巻で読むなら小此木啓吾訳、電子書籍なら井村恒郎訳もある。
中山元訳筑摩書房・ちくま学芸文庫、1996年
Amazonで探すフロイトの自我論の展開をたどる文庫の論集で、『快感原則の彼岸』『自我とエス』など8本の論文を収める。版元の紹介文は新編・新訳のアンソロジーとうたう。
道籏泰三訳岩波書店、2007年(岩波オンデマンドブックス版は2024年)
Amazonで探すフロイト全集の1巻で、自身の仕事を振り返る著作などとあわせて19編を収める。2007年の単行本は版元のサイトで品切れと表示されている(2026年10月時点)。2024年に岩波オンデマンドブックス版が出ている。
小此木啓吾訳人文書院、2023年(新装版)
Amazonで探すフロイト著作集の第6巻の新装版に収める。章題の訳は、第4章が「二種類の本能」、第5章が「自我の依存性」となっている。
井村恒郎訳日本教文社・電子書籍、2024年
Amazonで探す日本教文社のフロイド選集の1巻を電子化したもので、底本は2015年4月発行の版。『快感原則の彼岸』、集団心理学と自我の分析、無意識についてとあわせて収める。
さらに深く
【内容のあらまし】
短い序言でフロイトは、本書は『快感原則の彼岸』で始めた考察の続きだが、生物学から新しく借りることはせず、思弁よりも総合の性格をもつと断る。
第1章は、新しいことは何もないと断って始まる。心的なものを意識と無意識に分けることは精神分析の大前提で、ここが最初の合言葉になるから、読者の一部はここで立ち止まるだろうと見込む。無意識には意識になりうる潜在的なもの(前意識)と抑圧されたものがあると整理し、分析中の抵抗が自我から出ているのに意識されないことから、自我の一部も無意識だと認める。それでも意識の有無は、深層心理学の闇を照らす唯一の灯だと結ぶ。
第2章は、無意識の考えが前意識になるのは対応する言葉の表象と結びつくことによると論じ、我々は未知の制御できない力に生きられていると説くグロデックにならって、無意識のようにふるまう心の残りの部分をエスと呼ぶ。自我はエスをすっかり包むのではなく、胚盤が卵に乗るようにその表面に乗る。両者の関係は、馬の強い力を抑える騎手にたとえられる。騎手は自分の力で抑えるのに対し、自我の力は借り物だ。さらに「Das Ich ist vor allem ein körperliches(自我は何よりもまず身体的なものである)」と書き、自我は表面の存在であるだけでなく表面の投影でもあるとみる。
第3章は超自我を論じる。自我の性格は、手放した対象への愛着が沈殿したもので、対象選択の歴史を含むと見る。人間には高次のものがあるはずだと嘆く人々には、それこそが親との関係を代表する自我理想、つまり超自我だと答え、これをエディプス・コンプレックスの後継者と位置づける。超自我は「父のようであれ」と命じるとともに「父のようであってはならない」とも禁じる。第4章は、エロスと死の欲動の二元論を保ち、二つは混ざり合い分離もするとし、死の欲動はおおむね沈黙していて、生の騒がしさの多くはエロスから来ると述べる。
第5章は、治療の途中でかえって悪くなる患者の陰性治療反応を取り上げ、そこに働くのは、病気でいることに満足を見いだし、苦しみという罰を手放そうとしない罪悪感だと見きわめる。この罪悪感は黙っていて、患者は罪でなく病気だと感じる。メランコリーで超自我を支配しているのは、死の欲動の純粋培養のようなものだとも言う。最後の段落は、エスには自我に愛や憎しみを示す手段がなく、何を望むのかも言えず、まとまった意志をもたないまま、その中でエロスと死の欲動が争っていると述べる。エスを静かで強い死の欲動の支配下にあるかのように描くこともできるが、それではエロスの役割を軽く見るおそれがあるとして終わる。
著者
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