『ドイツ・イデオロギー』
マルクス・エンゲルス·近代
マルクスとエンゲルスが唯物史観(史的唯物論)を初めて体系的に展開した草稿
この著作について
三十歳前後のマルクスと盟友エンゲルスがブリュッセルで書き上げた厖大な草稿で、「史的唯物論」という歴史観が初めて体系的に姿を現した記念碑的著作。
【内容】
前半のフォイエルバッハ論を中心に、まず従来のドイツ観念論哲学を「天井裏でこねくり回される抽象」として痛烈に批判する。次いで、人間を抽象的な「類的存在」ではなく、特定の社会関係のなかで物を生産し労働する具体的存在として捉え直す。ここから、生産力の発展と生産関係の変化、私的所有と分業の歴史、支配階級とその思想、共産主義的連合の展望までが、粗削りながら大胆に素描される。後半ではシュティルナー、「真正社会主義者」ら同時代の論敵との論争が繰り広げられる。
【影響と意義】
生前は出版されず、一九三〇年代になって初めて公刊された本書は、以後のマルクス主義運動の理論的基盤となった。文化・法・宗教・道徳を「下部構造」としての経済関係の「上部構造」として読み解く方法は、のちの批判理論、カルチュラル・スタディーズ、歴史社会学にまで波及している。
【なぜ今読むか】
テクノロジー・プラットフォーム・気候変動など、いまや社会の骨組みを揺るがす問題の多くが、生産と所有と分業のかたちに深く関わっている。社会を経済的基盤から読み直す思考の型を、その原型のエネルギーのままに学べる一冊である。
どの訳で読むか
文庫で読むなら、訳注と解説がつく岩波文庫の廣松渉編訳・小林昌人補訳が目安になる。新日本出版社の服部文男監訳は、第1巻第1章を残された草稿に忠実に訳した138ページの普及版で、付録に『フォイエルバッハに関するテーゼ』を収める。どちらも聖ブルーノ以降や第2巻は入っていない。草稿は未完で並べ方が版によって違うので、引用や読み比べのときは版を確かめるとよい。
廣松渉編訳・小林昌人補訳岩波書店・岩波文庫、2002年
Amazonで探す書名の頭に新編輯版と付く。1974年に河出書房新社から出た廣松渉編訳の新編輯版に訳注を加えた文庫で、316ページ。目次は序文、序論の三つの草案、本論、付録、補録の『フォイエルバッハに関するテーゼ』、訳註、解説で、聖ブルーノ以降は並んでいない。版元の紹介文は、遺稿ゆえのテキストの問題に厳密なテキストクリティークで臨み、文庫として読みやすさも追った決定版とうたう。廣松は、マルクスのページ付けがない草稿の一束を、欠けている36〜39ページの下書きとみてそこに置いており、この並べ方は1998年の渋谷正編訳版と異なる。電子書籍もある。
服部文男監訳新日本出版社・科学的社会主義の古典選書、1996年
Amazonで探す版元での書名は[新訳]ドイツ・イデオロギー。第1巻第1章を、残された草稿に忠実に訳すことをめざした普及版で、A5判138ページ。付録として『フォイエルバッハに関するテーゼ』を収め、監訳者の解説が付く。
ほかに、新日本出版社の渋谷正編訳(草稿完全復元版、1998年)、大月書店の国民文庫の真下信一訳(1965年)、合同出版の花崎皋平訳(1992年)があるが、いずれも版元のページで品切れと表示されている(2026年10月時点)。聖ブルーノと聖マックス、第2巻まで日本語で通して読むなら、大月書店のマルクス=エンゲルス全集第3巻(1963年)に入っているが、版元の商品ページに在庫の表示はない。
さらに深く
【内容のあらまし】
全体は二巻で、第一巻はフォイエルバッハ、バウアー、シュティルナーに代表される近年のドイツ哲学を、第二巻はドイツの社会主義を批判する。
序文は、人間はこれまで神や正常な人間についての観念に従って関係をととのえ、自分の頭が生んだ幻影の前にひれ伏してきた、と書き出す。ある勇敢な男は、人が水に溺れるのは重力という観念にとりつかれているからだと考え、生涯その幻想と戦った。これがドイツの新しい革命的哲学者の典型だと序文は皮肉る。
第一巻の最初の篇「フォイエルバッハ」は、ヘーゲル哲学の分解が三年で三世紀分の過去を押し流したというイデオローグたちの自負を、それもすべて純粋な思考の領域での出来事だと冷やかすところから始まる。これに対して著者たちは、現実の個人とその活動、物質的な生活条件という、経験で確かめられる前提から出発する。人間は、生活手段を生産し始めたときに自分を動物から区別し始める。「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」という一文もここにある。
歴史の叙述は、人間は歴史をつくるためにまず生きていられなければならない、という前提から始まる。食べ、飲み、住み、着るための手段の生産が最初の歴史的行為である。分業を論じるくだりでは、分業のもとで各人が一つの活動範囲に縛られるのに対し、社会が生産全体を規制する共産主義社会なら、朝に狩りをし、午後に釣りをし、夕方に家畜を飼い、夕食後に批評をしても、猟師にも漁師にも牧人にも批評家にもならずにすむ、という有名な一節がある。共産主義は実現すべき理想ではなく、今の状態を廃棄する現実の運動であり、その条件は現存の前提から生じるともいう。市民社会こそ歴史の本当の源であり舞台であること、フォイエルバッハが頼る最も単純な感覚的確実性の対象でさえ、たとえばさくらんぼの木が数世紀前に商業でこの地域に移植されたように、社会の産物であること、支配階級の思想がどの時代でも支配的な思想であることが論じられる。英語版の編集では、話は都市と農村、マニュファクチュア、国家と法へ進む。この篇の草稿は未完で、並べ方は編者によって異なる。
続く「聖ブルーノ」と「聖マックス」は、論敵をライプツィヒの宗教会議に集う聖人に見立てた風刺である。シュティルナー批判の章は「旧約 人間」「新約 自我」という見出しで組まれている。第二巻は「真正社会主義」の論客たちを扱う。
原稿は出版者のもとに届いたが、事情が変わって印刷できなくなった。マルクスはのちに『経済学批判』の序言で、自己了解という主な目的は果たしたので、原稿を喜んでネズミがかじる批判に任せたと振り返っている。