知らないものを探すことはできない。 何を探しているか分からないからです。
知っているものを探す必要もありません。 すでに持っているからです。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
知らないものを探すことはできない、とメノンは言いました。何を探しているか分からないからです。知っているものを探す必要もありません。すでに持っているからです。
人は、探究できますか。
この問いには答えがあります。ただ、ほとんどの人が同じところでつまずきます。
この問いを出した人
徳とは何かを探そうとするソクラテスに、メノンが言います。探せるわけがない。 見つけたとしても、それが探していたものだとどうして分かるのか。
これは議論を打ち切るための一手です。探究そのものが不可能なら、話す意味がなくなります。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
定義を疑う。まったく知らないのではなく、うすうす分かっているから探せる。知るという言葉を二段階に分ける答えで、いちばん実感に合います。
筋道に従う。探究の余地はどこにもない。メノンの立場です。二つの場合分けに漏れが無いので、認めるなら結論まで認めるしかありません。
経験を信じる。現に人は新しいことを見つけているのだから、議論が間違っている。素直な反論で、実際そのとおりです。ただし、どこが間違いなのかは言えていません。結論を否定しただけで、推論はそのまま残ります。
言葉の問題とみる。探すという言葉を、二つの違う意味で使っているだけだ。間違いの場所を名指しする答えです。知らないものを探すの「知らない」と、知っているものを探すの「知っている」が、同じ強さで使われている。そこを分ければ、二つの場合分けに隙間が生まれます。
ソクラテスの答えは、突飛です
プラトンの応答は、想起説でした。
魂は生まれる前にすべてを知っていた。生まれるときに忘れただけで、学ぶとは思い出すことである。
だから探せます。完全に知らないのでもなく、すでに持っているのでもない。忘れているだけだからです。
彼はこれを示すために、幾何学を習ったことのない少年に問いを重ね、正方形の面積を倍にする方法を自力で答えさせます。 教えたのではなく引き出した、というのがソクラテスの主張です。
想起説を採らなくても、答えは残ります
現代の目で見ると、想起説はそのまま受け取りにくい。ですが構造は生きています。
まったくのゼロから探すことはできない。 何を探すかの見当がついているから探せる。この見当を、プラトンは前世の記憶に求めましたが、言語、経験、問いの立て方に求めることもできます。
科学の探究も同じ形をしています。何が答えになりうるかの枠が先にあって、その中で探す。 枠が無ければ、データは意味を持ちません。
生成の問題としても読めます
この問いは、新しさはどこから来るのかという問題でもあります。
持っているものの組み合わせからしか出てこないなら、本当に新しいものは生まれません。持っていないものは扱えないからです。
それでも新しいものは生まれる。その説明が、いまも完全には付いていません。
いま、この問いが出てくる場所
学習する仕組みには、必ず先に与えられた枠があります。何を学ぶか、何を良い答えとみなすか。
枠の外にあるものは、学習では見つかりません。メノンの問いは、その限界をそのまま指しています。
そして人間の探究にも、同じ限界があるはずです。私たちが問いすら立てられていないことは、私たちには見えません。