専門編 · 哲学の主要分野 · 第80章
心の哲学:意識の謎に挑む
メアリーは色を見たことがありません。生まれたときから白黒の部屋で育ち、そこで色について学べる物理学・神経科学の知識をすべて学んだ天才科学者です。ある日、彼女は初めて部屋を出て、赤いリンゴを見ます。彼女は新しいことを学んだのか、それとも何も新しく知らなかったのか。1982年フランク・ジャクソンが提出したこの思考実験から本章を始めます。
心身問題 — デカルトの松果体から
近代心の哲学の出発点はデカルトの心身二元論です。延長を本質とする物体と、思惟を本質とする精神は、本性を異にする二つの実体です。ところが現実の人間は、心が思考すれば腕が上がり、針を刺せば痛みを感じる。心と物が本質を異にするなら、両者はどこでどう相互作用するのか。
デカルト自身は脳の中央にある松果体(pineal gland)を心身相互作用の場として持ち出しました。なぜ松果体か、なぜそこに精神が降りてくるのか、そしてそもそも非物質的なものがどう物質に作用するのか。この相互作用問題は二元論の最大の難点として、現代まで二元論者を悩ませ続けています。性質二元論(チャーマーズ)や随伴現象論など、洗練された二元論にも形を変えて生き残っています。
物理主義と機能主義 — 心は脳に過ぎないのか
20世紀後半に主流となったのは物理主義です。心的状態は脳状態と同一だとする同一説、心的状態は機能的役割によって定義されるとする機能主義、心的状態は脳状態に随伴するという付随性の主張など、多様なバリエーションが展開されました。心は脳の活動を超えた何ものでもない、と。
特に1960年代に提出された機能主義は強力でした。痛みとは「組織損傷を入力とし、回避行動を出力とする状態」のように定義されるなら、シリコンでも生物の脳でも、同じ機能を実現すれば痛みになります。タコでも宇宙人でも痛みを感じえます。複数の物理的実装を許容するこの立場は、認知科学とAI研究の哲学的基盤となり、現代の脳科学と心の哲学の対話の出発点を準備しました。
ハードプロブレム — メアリーとコウモリ
1974年、トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」という有名な論文で、物理主義に決定的な反論を提示しました。コウモリは超音波で世界を「見る」。彼らの主観的経験は、私たちには想像しがたい。コウモリの脳活動と感覚器官をすべて知ったとしても、「コウモリであることのありかた」は捉えられません。客観的記述で捉えきれない主観性が、心には残る。
1995年、デイヴィッド・チャーマーズはこれを「意識のハードプロブレム」と呼びました。脳の働きが知覚や記憶を実現することを説明するイージープロブレム(それでも難しい)とは別に、なぜそこに主観的経験(クオリア)が伴うのかは、機能の説明では飛び越えられません。冒頭のメアリーの部屋、サールの「中国語の部屋」など、物理主義に対する反例が次々と提出され、議論は今も続いています。
拡張された心とAI意識 — 心の境界はどこか
1998年、アンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズは「拡張された心」テーゼを発表しました。アルツハイマー患者が手帳に住所を書きとめて行動するとき、その手帳は彼の記憶機能の一部とみなしてよい。ノート、スマホ、検索エンジンも認知システムの一部です。心は脳の中だけでなく、環境や道具にまたがって構成される。身体性認知科学と合流して、心の境界そのものを問い直す動きが活発化しました。
2022年以降の大規模言語モデルの登場で、議論は新しい段階に入りました。GPTやClaudeのようなシステムは意識を持ちうるか。トノーニの統合情報理論(IIT)は意識を情報統合の度合いとして数量化しようとし、その立場では充分に統合された人工システムも意識を持ちえます。哲学者ピーター・ゴッドフリー=スミスはタコの八本の腕に「分散した意識」を見ています。次章では、心と並ぶもう一つの根本機能、言葉の哲学に進みます。
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