『暦象新書』
れきしょうしんしょ
志筑忠雄·近代
ニュートン力学を日本に初めて紹介した蘭学の天文学書
この著作について
長崎の蘭学者・通詞であった志筑忠雄(しづきただお、1760〜1806)が1798〜1802年にかけて執筆した、ニュートン力学・近代天文学を日本に紹介する画期的著作。底本はオランダの天文学者ジョン・ケイル『真の自然学および天文学への入門』のオランダ語版である。
【内容】
万有引力、地動説、惑星運動の法則など、近代物理学・天文学の中核概念を日本語で初めて体系的に解説した。「重力」「真空」「遠心力」「向心力」「楕円」など、現代の物理学・天文学に欠かせない訳語の多くが本書で創出された。「鎖国」という日本語の概念自体も、志筑がケンペル『日本誌』翻訳の際に造語したものとされる。志筑は単なる翻訳者ではなく、原書の説明を超えてニュートン力学の哲学的含意を考究し、独自の「精気説」と統合する試みも行った。
【影響と意義】
本書によって日本の知識人は西洋近代科学の宇宙像を初めて系統的に知ることができた。幕末の天文方・洋学者へ影響し、明治期の本格的科学受容の前提を整えた。蘭学が単なる実用知識を超えた科学的世界観の受容へ進む転換点に位置する。
【なぜ今読むか】
科学概念の翻訳・受容がいかに思想的営為であるかを示す古典。新しい知識体系を自国語で考える試みの先駆。
さらに深く
【内容のあらまし】
本書は上・中・下の三編からなり、ケイル(志筑の表記は奇児)の書のオランダ語訳を底本に、志筑が随所に自分の補説を加えた。上編の例言で志筑は、自分は一介の通詞で蘭書の大意はつかめても和漢の典籍に暗く、天文学が何たるかを知るには足りないと断る。
1798年6月に成った上編は、星の見かけの動きから入る。ケイルの天文学入門の第一課から第五課(見かけの運動から世界の体系、太陽の黒点、恒星まで)に多くを負い、蘭訳者ルロフスの注も使って自由に要約する。心身ともに地上から解き放たれて天体の側から万物を眺める「心遊術」や、世界の複数性の議論も出てくる。大地が動くならその影響が大きく現れるはずだという疑問にも答えるが、研究者は、志筑が地動説の正しさを認めながら運動の相対性などを理由に天動説を退けきらなかったと指摘している。
1800年10月に成った中編は、例言によれば、上編が実際の動きを論じたのに対してその理を論じ、大意は「衆動一貫」にある。冒頭の「元気屈伸」は志筑自身が中国と西洋の説を考え合わせて書いた章で、「重力」の章は、大地が万物を引くだけでなく万物も大地を引くと説き、重力が距離の二乗の逆数に応じるという一句に、地球の半径を単位にした数の例で注を付ける。「常静常勤」は、静止するものは動かされなければ動かず、動くものは止められなければ一直線に動き続けるという慣性の法則にあたる内容である。力の合成や落下、遠心力と求心力を経て、「衆動一貫比例起源」では、求心力が距離の二乗に反比例するなら距離の三乗と周期の二乗が比例する、つまりケプラーの第三法則を導く。末尾の問答では、なぜ大小の天体がみな同じ面で同じ向きに回るのかと問われ、これは西洋の説にも見えないと答え、寛政5年のある夜に夢で大筋を悟ったがまだ満足していないので、のちに下編の末に加えることもあろうという。
1802年10月に成った下編は主に楕円を扱い、最後に「混沌分判図説」が置かれる。満ちていた気に動きが生じ、濃い所の勢いが全体を一つの回転にまとめる。気は巻き縮むにつれて回転を速め、遠心力が求心力と釣り合った所で第一の天が定まる。その内側でも気が巻き縮んで第六の天までが分かれ、中央には大きなまとまりが生じる。気の濃淡や引力の違いで軌道は完全な円にも一つの面にもならないが、ずれはわずかだという。環ができる場合や、遅れて近づき面も向きも選ばず細長い楕円を描く別種の塊にも触れたあと、これは気の集散の大きな理を述べたにすぎず天地の始まりを語るのではないと断り、西洋の人がすでにこの説を立てているかもしれないが、まだ聞いていないだけだと結ぶ。