『憂国』
ゆうこく
現代
三島由紀夫の短編小説
この著作について
三島由紀夫が二・二六事件を題材に書いた短編で、のちの三島自身の最期を暗示する凝縮された一作。
【内容】
二・二六事件の際、蹶起部隊の鎮圧を命じられた近衛歩兵の武山信二中尉は、親友たちと刃を交えることに堪えられず、妻・麗子と二人で自刃する道を選ぶ。結婚してまだ半年の若い夫婦が、家で最後の夜を共に過ごし、互いの体を確かめ合い、作法に則って切腹と自害を遂げる。その所作の一つ一つが、几帳面な文体と絵画的な照明のもとで描かれ、死と性愛と忠義が分かちがたく溶け合う。語られるのは破滅ではなく「完成」としての死である。
【影響と意義】
自身で監督・主演した短編映画『憂国』へと作品化され、三島の美学の到達点として国内外で論じられてきた。死の九年後に三島が市ヶ谷で起こした事件と重ね合わせて読まれ、戦後日本が抑圧した倫理感情の問題を鋭く照らす作品として今も評価が高い。
【なぜ今読むか】
生と死、美と倫理、愛と国家という重い主題を短い時間で正面から経験できる。同調できるか否かを超えて、二十世紀半ばの日本文学が到達した緊張を知るための、避けて通れない一編である。
さらに深く
【内容のあらまし】
物語は壱から伍までの五つの章に分かれる。壱は明治の新聞記事に似せた文語体で、事件三日目の夜、近衛歩兵一聯隊の武山信二中尉が四谷区青葉町の自宅の八畳間で軍刀により割腹し、妻の麗子も後を追ったことを先に告げてしまう。中尉の遺書は「皇軍万歳」の四文字だけだった。中尉は三十歳、麗子は二十三歳。
弐は新婚の日々を描く。二人の夜の情熱が語られたあと、節の終わりでは、そのすべてが道徳的で、教育勅語の説く夫婦の和にも叶っていたとされる。毎朝、出勤前の中尉は妻と共に、階下の神棚の下で深く頭を垂れる。
二月二十六日の朝、雪の暁闇に集合喇叭が鳴り、中尉は急いで家を出る。ラジオが事件を伝える。死を予感した麗子の目には、唯一のコレクションである陶器の小さな動物たちが、いっそうよるべのない表情を帯びはじめたように映る。栗鼠を一つ手に取りながら、彼女はそのはるか彼方に、良人の体現する太陽のような大義を仰ぐ。
二十八日の日暮れ時、玄関の戸が激しく叩かれる。無精髭に覆われ、頬の落ちた中尉は、軍服のまま卓袱台に向かってうなだれる。親友の加納も本間も山口も自分を誘わなかった、新婚の身をいたわったのだろう、と中尉は語る。おそらく明日にも勅命が下り、部下を指揮して彼らを討たねばならないが、それは自分にはできない、と言う。中尉が今夜腹を切ると告げると、麗子は「覚悟はしておりました」と答えてお供を願う。中尉は、自分の最期を見届けてほしいと頼む。
身を清める中尉の湯の音が遠く聞こえる。湯を使いながら中尉は、二人が死を決めたときの喜びを思い返し、自分の肉の欲望と憂国の至情のあいだに何の矛盾も見ない。二階で妻を待つ中尉の耳に、残雪を蹴立てるタイヤのきしみやクラクションが届き、忙しく行き交う社会の海の中で、この家だけが孤島のように感じられる。これが最後だからと妻の体をよく見せてもらい、二人は最後の営みを終える。夜はしんとして、二つに分かれた皇軍がこの東京で向き合っている緊迫は嘘のようだ。仕度をしようと言う中尉の声は、決然としていながら、麗子が聞いたことのないほど温かく優しい。白無垢に着替えた花嫁のような妻の姿に、中尉は自分が身を捧げてきた皇室や国家や軍旗の幻を見る。
肆の割腹では、刀身に白布を巻いた刃が腹を切り裂き、一滴の血が小鳥のように遠く飛んで麗子の白無垢の膝に届く。血の中を膝で進んで近寄った麗子の白無垢の裾は、真紅に染まる。切腹を見守る麗子は、自分と良人のあいだに無情な高い硝子の壁が立ったように感じる。伍で一人になった麗子は、血にすべる白足袋を踏みしめて死化粧に立ち、自らも咽喉を切って後を追う。
著者
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