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日

『日本近代文学の起源』

にほんきんだいぶんがくのきげん

現代

柄谷行人が日本文学研究に衝撃を与えた画期的著作

文学哲学

この著作について

批評家・柄谷行人《からたにこうじん》が雑誌連載ののち大幅に改稿してまとめた、日本文学研究にパラダイム転換をもたらした批評の決定版。

【内容】

本書の核は、日本近代文学の諸前提とされてきたものが、明治二十年代から三十年代にかけて「起源」として事後的に構成されたという指摘にある。国木田独歩《くにきだどっぽ》の風景描写を手がかりに「風景の発見」の章が、島崎藤村《しまざきとうそん》や田山花袋《たやまかたい》の告白を素材に「内面の発見」の章が、写生文と言文一致運動を扱う「告白という制度」「児童の発見」「病の意味」などの章が続く。いずれも、「自然な経験」として扱われてきた風景・内面・病・子どもが、実は近代日本の特定の制度のなかで作られたものであると明らかにされる。

【影響と意義】

英訳版がフレドリック・ジェイムソンの序文を付して刊行され、日本研究・比較文学・ポストコロニアル批評に大きな影響を与えた。日本近代文学を、西洋モダニズムの単なる移植として論じる枠組みを根本から書き換えた点で画期的である。

【なぜ今読むか】

SNSで日々更新される「自分」「自然」「心」「子ども」といった語彙の重みを、歴史的に相対化する目を鍛えてくれる。文化を外側からながめる視点を身につけたい読者にとって、刺激の絶えない書物である。

さらに深く

【内容のあらまし】

本は1980年に講談社から刊行され、2004年に定本として改稿された。いま岩波現代文庫で読める定本は、英語版で書き足された「ジャンルの消滅」を第7章に収め、全7章からなる。岩波現代文庫版の序文で柄谷は、ある物の起源が見えてくるのはそれが終わるときだと書く。1970年代後半にも終焉を感じていたが、それは別の文学が台頭する予感で、定本に取り組んだときには日本近代文学の終焉を痛切に感じていたと明かす。

第1章「風景の発見」は漱石の『文学論』から書き起こされ、下宿にこもって文学とは何かを根本から問おうと決めた序の一節が引かれる。柄谷は、漱石が疑ったのは19世紀の英仏で形づくられた文学の趣味判断と文学史の通念であり、近代の否定や前近代の称賛ではなかったと読み、話を絵画へ移す。宇佐見圭司を引いて、山水画という名は明治にフェノロサが与えたもので、山水画と呼ばれるもの自体が西洋の風景画を通して見出されたとする。山水画家が描いたのは、一つの視点から見た松林ではなく、松という概念だった。

そこで国木田独歩の「忘れえぬ人々」が読まれる。無名の文学者大津は、多摩川沿いの宿で知り合った秋山に、船の上から眺めた、島かげの磯で何かを拾っていた顔も知らない男の話をする。2年後、大津が原稿の最後に書き加えたのは宿の主人で、秋山ではなかった。目の前の他者には冷淡なこの人物にこそ風景が現れるとして、風景は「外」をみない人間によって見出されたと述べる。柄谷は、内面と風景を成り立たせる形式を、確立されるやいなや起源が忘れられる装置とみる。

第2章「内面の発見」は言文一致を取り上げ、その始まりとされる幕末の前島密の漢字廃止の建白に注目して、運動の核心を文字に関する新たな観念に見る。市川団十郎の芸がもたらしたのも、厚化粧で隈取られた仮面に代わる素顔だったと述べる。円朝の落語のとおりに書いてみよと坪内逍遥に勧められた二葉亭四迷の回想や、独歩が影響を受けたツルゲーネフの翻訳「あひびき」、正岡子規らの写生文にも筆が及ぶ。

第3章から第5章は告白、病、児童を扱う。英語版の版元は、性と身体の抑圧から生まれた告白の文学、士族のキリスト教への改宗、病が意味を生む神話になったこと、独立した存在としての子どもの発見を論点に挙げる。第6章は、坪内逍遥と森鷗外の没理想論争と、芥川龍之介が谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》に答えて話らしい話のない小説を推した論争を読み直す。最終章では、漱石がスウィフトやスターンに日本の写生文と似たものを見出したことがはらむ問題が論じられる。

著者

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