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暇

『暇と退屈の倫理学』

ひまと たいくつの りんりがく

國分功一郎《こくぶんこういちろう》·現代

国分功一郎が「退屈」の哲学史を辿りながら余暇の意味を問い直した現代哲学書

哲学

この著作について

哲学者・國分功一郎《こくぶんこういちろう》が、退屈という誰もが知る気分を正面から主題に据えた現代日本の人気哲学書。

【内容】

定住革命後に生まれた「暇」と、狩猟採集の身体に染みついた「気晴らし」への欲求の衝突から話が始まる。パスカルの気晴らし論、ラッセルの幸福論、ハイデガーの深い退屈の三区分、ユクスキュルの環世界論を自在に往復しながら、消費社会が退屈を飼いならす装置として機能していることを浮かび上がらせる。結論部では、退屈と上手に同居しつつ「楽しみを学ぶ」ことの倫理が提案される。

【影響と意義】

紀伊国屋じんぶん大賞などを受け、哲学書として異例のロングセラーとなった。難解とされてきた思想家の議論を生活実感に接続させる手つきが評価され、日本語圏の哲学書の書き方そのものを更新したと受け止められている。

【なぜ今読むか】

SNSや動画で時間はいくらでも潰せるのに、どこか満たされない感覚が残る時代。退屈から逃げるのでも耐えるのでもない第三の道を示す本書は、自分の時間の使い方を静かに点検させてくれる。

さらに深く

【内容のあらまし】

序章はまず、人類が目指してきた豊かさが達成されると人が不幸になるという逆説に行き当たる。ラッセルは、西欧の若者は才能を発揮する機会がなく不幸になりがちだが、創造すべき新世界をもつロシアの若者は幸福だと書いた。著者はモリスを受けて、パンだけでなくバラも求めよう、生きることはバラで飾られねばならないと掲げる。

第一章はパスカルから始まる。人間の不幸はすべて、部屋にじっとしていられないことから起こるという。ウサギ狩りに行く人にウサギを渡せば嫌な顔をされる。欲しいのは獲物ではなく気を紛らわせる騒ぎだからだ。著者は欲望の対象と欲望の原因を分け、熱中するには負荷が要り、退屈した人間はむしろ苦しみを求めると論じる。第二章は西田正規《にしだまさき》の定住革命の説を手がかりにする。人類は数百万年移動して暮らし、約1万年前に定住を強いられると、遊動生活で発揮されていた能力が行き場を失い、退屈が一人ひとりの立ち向かう相手になった。

第三章は、暇を客観的な条件、退屈を主観的な状態として分ける。ヴェブレンの製作者本能の概念を批判しつつ、かつての貴族が暇の中でも退屈せずに生きる術を知っていたことに手がかりを見る。ただし搾取の上に立つ階級を美化はしないと釘を刺す。第四章はボードリヤールに拠り、消費社会では労働も余暇も生きがいや好きなことといった観念の消費になり、満足が来ないまま終わらないと論じる。

第五章でハイデガーの『形而上学の根本諸概念』が読まれる。駅で列車を待つ退屈、パーティーでの退屈、日曜の午後の大通りで聞こえる「なんとなく退屈だ」の声。ハイデガーは三つめを最も深い退屈とし、そこから決断せよと説く。第六章はユクスキュルの環世界を取り上げる。ハイデガーは環世界を動物にだけ認め、人間だけが自由で退屈するとした。著者は、生き物はみな環世界のあいだを移動でき、その力が並外れて高い人間は一つの世界に浸れずに退屈すると反論する。

第七章は、決断した者は決断の内容の奴隷となり、第一形式の退屈に似てくると説く。気晴らしと退屈が絡み合った第二形式の生こそ人間の正気であり、その気晴らしは生きるつらさをやり過ごす知恵だという。結論は三つある。読み進めること自体が実践の第一歩なので、こうしなければ、ああしなければと思い煩う必要はないこと。物を受け取る浪費にはどこかで満足があることを踏まえ、楽しむ訓練を積んで贅沢を取り戻すこと。何かにとりさらわれて思考せざるをえなくなる瞬間、つまり動物になる瞬間を、人間であることを楽しみながら待ち構えること。増補新版には、なぜ人は退屈するのかを問う論考「傷と運命」が付く。

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