『ジェンダー・トラブル』
ジュディス・バトラー·現代
ジェンダーのパフォーマティヴィティ理論を展開したポストモダン・フェミニズムの主著
この著作について
ジュディス・バトラーが若き日に刊行し、クィア理論の基礎文献として現代フェミニズムの風景を一変させた現代哲学の重要作。
【内容】
本書はまず、フェミニズムが暗黙の前提とする「女性」という主体のカテゴリーが、すでに排除と差別の装置を内在させているのではないかという問いから始まる。バトラーは、生物学的な性別(セックス)、社会的な性役割(ジェンダー)、性的指向(セクシュアリティ)の従来の区別を綿密に解体し、どれもが言説と権力関係のなかで構築されていることを示す。中核となるのが「パフォーマティヴィティ」の概念である。ジェンダーは誰かに先行する本質として存在するのではなく、服装、歩き方、話し方、身振りなど、繰り返される行為のなかで事後的に立ち上がる。ドラァグ・パフォーマンスやパロディが、本質を持たないジェンダーの仕組みを逆に可視化する例として論じられる。
【影響と意義】
本書以降、クィア理論は独立の学問領域として急速に成長し、英米のジェンダー研究・カルチュラル・スタディーズ・映画研究に深い影響を与えた。LGBTQ運動や法制度論議にも理論的根拠を提供し、現代フェミニズムの系譜に新たな分岐点を刻んだ。
【なぜ今読むか】
ジェンダーの語彙が社会のあらゆる場面で更新されている今、本書は「なぜ当たり前に見えるカテゴリーを問い直すのか」を原理的に考える手がかりを与える。難解だが、避けて通れない現代哲学の一冊である。
さらに深く
【内容のあらまし】
本書はバトラーが三十代前半に刊行した著作で、三章構成のなかでフェミニズム理論の前提を一つひとつ解体していく。冒頭でまず立てられるのは、誰のためのフェミニズムかという問いである。「女性」を主体とする政治運動は、その「女性」というカテゴリーを定義した瞬間に、そこから漏れる存在を排除してしまう、というジレンマが提示される。
第一章では、ボーヴォワール、ウィティッグ、イリガライらの先行する議論が読み直される。ボーヴォワールの「女に生まれるのではなく女になる」というテーゼは、生物学的セックスと社会的ジェンダーの区別を可能にしたが、バトラーはその区別自体が新しい本質主義を作り出していると指摘する。「セックス」と呼ばれる生物学的事実もまた、医学言説や法制度のなかで構築された結果ではないか、というのが彼女の問いである。
第二章では、レヴィ=ストロースの近親婚禁忌、ラカンの象徴界、フロイトのエディプス・コンプレックスが順に検討される。これらの理論は、異性愛と二項的なジェンダーをすでに前提として組み込んでおり、その前提のもとで「正常」な主体の形成が説明されている。バトラーは、これらの理論が中立的な記述の装いのもとで、実は異性愛中心主義を再生産していると分析する。クリステヴァのアブジェクシオン論の批判もここで展開される。
第三章が本書の理論的頂点である。中心概念は「パフォーマティヴィティ」である。ジェンダーは人の内側にある本質ではなく、服装、歩き方、声の調子、身振りといった日々の反復行為のなかで事後的に構成される。子どもが「女の子らしく」という言葉を浴び続けるなかで、女らしさという内面が後付けで形成されていく。本質が表現されているのではなく、反復が本質の幻影をつくっている、というのが核心である。ドラァグ・パフォーマンスは、この構築のからくりを誇張的に演じることで、ジェンダーの自然らしさを揺るがす実例として論じられる。
本書の文体は密で、文脈なしに読むと難解だが、議論の運びは執拗なほど一貫している。「自然」と思われていた性別の地面そのものを問い直す、その思考の動きを目撃する書物である。