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キ

『キリスト者の自由』

きりすとしゃのじゆう

近代

信仰による自由と隣人愛を二命題で示したルター宗教改革三大文書の一つ

宗教哲学

この著作について

マルティン・ルターが1520年に公刊した宗教改革初期三大文書の一つ。95箇条の提題から3年後、破門を予告されていた状況下で書かれ、ドイツ語版とラテン語版がともに1520年に出た改革の神学的核心の宣言書。

【内容】

冒頭に有名な二命題が掲げられる。「キリスト者はすべてのものの自由な主人であり、誰にも従属しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であり、誰にでも従属する」。内なる魂は信仰によって律法から解放され神の前で自由である一方、外なる身体は愛によって隣人に仕える、という二重の規定を、『ガラテヤの信徒への手紙』と『ローマの信徒への手紙』を鍵に展開する。行いによる救いを退け、信仰義認の立場を簡潔に示す。

【影響と意義】

宗教改革の神学を一般信徒の言葉で伝えた代表的な成功例となり、ドイツ語圏の識字率向上と近代的主体形成の両面に影響した。プロテスタント倫理の源流の一つに数えられる。

【なぜ今読むか】

「自由と責任の両立」を巡る近代的問いの原型として、制度と良心の緊張を問う現代人にも示唆が多い。

どの訳で読むか

124頁の文庫で、ルターがドイツ語訳聖書に付けた序言もあわせて読むなら岩波文庫の石原訳がよい。同じ1520年に出たほかの二つの文書や「九五箇条の提題」と並べて読みたいなら講談社学術文庫の深井訳、訳者の緒論と注解とともに読みたいなら教文館の徳善訳が目安になる。アウグスティヌス『告白』と1冊で読みたいなら、河出書房新社のオンデマンド版にある徳沢訳も選べる。

  • 石原謙訳岩波書店・岩波文庫、1955年

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    書名に新訳とうたい、ルターが生涯をかけたドイツ語訳聖書の序言三種を併せて収める。国立国会図書館の書誌によれば、底本はヴァイマール版ルター全集第7巻で、1933年に岩波書店から出た本の改訂版にあたる。版元の紹介文は、小著ながら「キリスト教生活の全体」が含まれていると書く。

  • 深井智朗訳講談社・講談社学術文庫、2017年

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    1520年に相次いで出た三つの文書と「九五箇条の提題」を1冊に収めた文庫で、この訳では題が「キリスト者の自由について」となる。版元は、三つの文書のうち文庫で読めたのはこれまでこの文書だけだったとして、三つすべてを収めた点を特色に挙げる。訳者序文、訳者解説、訳者あとがきがつき、電子版もある。

  • 徳善義和訳教文館、2011年

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    四六判320頁の単行本で、訳に訳者の「緒論」と「注解」がつく。版元によれば、2005年に教文館から出たルターの著作選集に収めた「最新(5度目)の翻訳」を収録している。緒論と注解は、1985年に新地書房から出た全訳と吟味の本の「序章」と「吟味」を改題し、改訂したもの。版元は「ルター研究の第一人者による最新の翻訳に、緒論と注解を付した決定版」と紹介している。

  • 徳沢得二訳河出書房新社・世界の大思想オンデマンド版、原版1966年

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    アウグスティヌス『告白』と合わせて1冊にしたA5判450頁のオンデマンド本。国立国会図書館の書誌によれば、1966年刊の「世界の大思想」第3巻の複製で、『キリスト者の自由』の訳者は徳沢得二、『告白』の訳者は今泉三良と村治能就である。河出書房新社の書籍ページにオンデマンド本として載っている。

さらに深く

【内容のあらまし】

ルターは1520年9月6日付の手紙で、この小著を教皇レオ10世に差し出す。見かけは小さいが、意味をつかめばキリスト者の生活の要約だと書き添える。

ドイツ語版の本文は、現代の版では30の節に分けられる。第1節に二つの命題が並ぶ。キリスト者はすべてのものの自由な主人であり、誰にも従属しない。同時に、すべてのものに仕える僕であり、誰にでも従属する。ルターは、私はすべてのことにおいて自由であり、自分をすべての人の僕とした、というパウロの言葉を引いて裏づける。第2節で人間を霊的な内なる人と肉体をもつ外なる人に分け、第18節までは内なる人を扱う。

ルターによれば、聖なる衣を着ても、教会に身を置いても、断食や巡礼をしても、魂は自由にも義にもならない。魂に要るのは神の言葉だけで、聖書の言葉は戒めと約束に分かれる。戒めはなすべきことを教えるが力は与えず、人に自分の無力を思い知らせる。そこへ約束が来て告げる。「Glaubst du, so hast du; glaubst du nicht, so hast du nicht.」(信じれば得る。信じなければ得ない。)

続いて信仰が何をもたらすかが語られる。神を真実な方と信じることは、神に最大の栄誉を与えることである。花嫁が花婿と結ばれるように、信仰は魂をキリストと結びつけ、キリストは魂の罪を引き受け、魂はキリストの義を受け取る。ルターはこれを喜ばしい交換と呼ぶ。さらに、キリストが霊的な王であり祭司であることを、信じる者すべてが分かち持つと説く。行いで義となろうとすれば、信仰ごとすべてを失う。水に映った肉に食いついて、くわえていた肉まで失う犬のようだという。

第19節では、それなら何もしなくてよいのかという反論を受けて、外なる人へ移る。体は断食や労働で律しなければならないが、それで義となるのではない。罪のないアダムが楽園を耕したように、行いは神に喜ばれるために自由になされる。第23節は二つの言葉を掲げる。善い行いが善い人をつくるのではなく、善い人が善い行いをする。木が実を結ぶのであって、実が木をつくるのではない。

第26節からは隣人への行いが論じられる。神の形でありながら僕の形をとったキリストにならい、キリスト者は隣人にとって一種のキリストになるべきだという。清めの必要のないマリアが掟どおり清めを受けた話や、魚の口から出た硬貨で税を納めさせたイエスの話が例に引かれる。最後の第30節は、キリスト者は自分の中ではなく、信仰を通してキリストの中に、愛を通して隣人の中に生きると結ぶ。信仰によって自分を超えて神へ昇り、神から愛によって自分の下へ降りてゆくのである。

著者

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