『疲労社会』
ひろうしゃかい
ハン・ビョンチョル·現代
ハン・ビョンチョルが成果主義と自己搾取が生む現代の疲弊を分析した哲学書
この著作について
ドイツ在住の韓国人哲学者ハン・ビョンチョルが2010年に公刊した、現代社会の「過剰な肯定性」が生む疲弊の構造を論じた薄いが鋭い著作。
【内容】
全80ページほどの小冊子ながら、密度は非常に高い。20世紀までの社会は、規律と禁止(〜してはならない)によって動く「免疫学的社会」だった。しかし21世紀の「業績社会」では、達成・自由・プロジェクトが駆動力となり、外側の他者や規範ではなく、自分自身との無限の競争が内面で繰り広げられる。「できる(Can)」の過剰が「しなければならない(Must)」に変質し、自己搾取・うつ病・注意欠陥症・燃え尽きといった症状を生み出す。SNSにおける過剰な自己開示、肯定されたい願望、過剰な情報消費も、この文脈で批判される。
【影響と意義】
現代の過労・うつ・SNS疲れを哲学的に診断した書物として、ヨーロッパ各国と日本で広く読まれている。ハンの一連の著作群(『透明社会』『他者の不在』等)の出発点でもある。
【なぜ今読むか】
「現代人の敵は外側にではなく、自分の内側にいる」という指摘は、SNS時代に疲れを感じる人が、自分の状況を一歩引いて見直す助けになる。
さらに深く
【内容のあらまし】
日本語版は序「疲れたプロメテウス」に始まり、八つの章が続く。序は、毎日ワシに内臓をついばまれては再生するプロメテウスの責め苦を、自分を搾り続ける現代人の姿になぞらえる。
第1章「精神的暴力」は、時代ごとに代表的な病があるという一文で始まる。細菌の時代は抗生物質で終わった。21世紀の初めを決めるのは、うつ病、注意欠陥多動症、境界性パーソナリティ障害、燃え尽き症候群といった神経の病で、それらは感染ではなく梗塞であり、他者という否定性ではなく肯定性の過剰による。ハンは、免疫の図式で今を読むエスポジトを誤った前提に立つと退ける。ボードリヤールは敵の姿を狼、鼠、甲虫、ウイルスとたどったが、肯定性の暴力は敵対を前提としない。燃え尽きとは、同じものの過剰で過熱した自我が焼き切れることだという。
第2章「規律社会の彼岸」は、病院、精神病院、監獄、兵舎、工場に支えられ「すべき」「してはならない」で動くフーコーの規律社会に、フィットネス・スタジオ、オフィスタワー、銀行、空港、ショッピングモールの社会を対置する。日本語版で能力社会と訳されるこの社会は、肯定的な「できる」を軸とし、狂人と犯罪者ではなく、うつ病の人と落伍者を生む。そこにいるのは、外からの強制なしにみずから進んで自分を搾り取る「労働する動物」である。支配が消えても自由にはならず、自由と強制が重なり合う。
第3章「深い退屈」は、肯定性の過剰が刺激と情報の過剰として現れ、注意を断片化すると言う。マルチタスクは進歩ではなく退化で、野生動物にありふれた、生き延びるための注意の技術にすぎない。そうした動物は背後の出来事にも気を配らねばならず、目の前のものに観想的に沈み込めない。人類の文化的達成は深い観想的注意に負い、創造には深い退屈が欠かせないと説く。
第4章「活動的な生」は、人間は動物の一種になりつつあるのかもしれないという『人間の条件』の示唆を引きつつ、アーレントの描く「労働する動物」は今日に当てはまらないと言う。多動な後期近代の「労働する動物」は、種の匿名の生に溶け込むどころか、はち切れそうな自我をもつ。第5章「見ることの教育学」はニーチェにならって見ることを学ぶ必要を説き、第6章「バートルビーの場合」は、メルヴィルの小説の主人公を規律社会の従順な主体として病理の面から読む。
表題の第7章「疲労社会」は、ペーター・ハントケの疲労論を手がかりに、人を結びつける「私たち」の疲れを、人を分け、孤立させる今日の「私」の疲れと対比する。第8章「燃え尽き症社会」は、フロイトの無意識を禁止と抑圧の規律社会の産物とみる。