相手が人か機械か分からないまま、文字だけでやりとりします。何を聞いてもよく、時間の制限もありません。
それでも最後まで見分けられませんでした。相手は機械でした。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
相手が人か機械か分からないまま、文字だけでやりとりします。何を聞いてもよく、時間の制限もありません。それでも最後まで見分けられませんでした。相手は機械でした。
その機械は、考えていますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
アラン・チューリングが1950年に提案しました。
読み違えられやすいのですが、チューリングは「見分けがつかなければ考えている」と主張したのではありません。 彼が言ったのは、「機械は考えるか」という問いは曖昧すぎて答えようがないから、答えられる問いに置き換えようということでした。
置き換えた先が、判定ゲームです。考えるとは何かを定義せずに済ませ、代わりに測れる形にした。問いを解いたのではなく、問いを設計し直したわけです。
チューリング自身は、2000年ごろには、5分話しても判定者の3割が人間だと誤認するようになる、と予想していました。思い描いたのは完璧に化けることではなく、3割の誤認という控えめな水準です。ただしこれは合格ラインを定めたものではなく、あくまで見通しでした。2000年の時点では届いていませんでしたが、いまはこの水準を越えています。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
ふるまいで決める。見分けられないなら、それ以上に問うことは無い。チューリングの立場で、判定できないものを問わないという科学の作法に沿っています。
内側があるかで決める。内側で何かを感じていなければ、考えたことにならない。デカルト以来の考え方です。ふるまいは心の証拠ではあっても、心そのものではない。
生きものかで決める。生きていないものは考えない。アリストテレスは魂を生きた身体の働きと考えました。この見方だと、計算でどれだけ真似ても心にはなりません。
分からないとする。人間相手でも、本当に考えているかは確かめていない。これがこの問いの急所です。 あなたが他人の心を確認したことは一度もありません。ふるまいから推測しているだけです。機械にだけ別の基準を求めるなら、その理由を説明しなければなりません。
テストが測っているのは、機械だけではありません
実際にこのテストをやると、面白いことが起きます。人間が人間らしくないと判定されることがよくあるのです。
早口で正確に答える人、感情を出さない人、知識が偏っている人。私たちが「人間らしい」と思っているものは、人間の性質というより、人間らしさの型のようなものです。
つまりこのテストは、機械の能力と同じくらい、判定する側が何を人間だと思っているかを測っています。チューリングがそこまで意図したかは分かりませんが、実際にはそう機能しています。
いま、この問いが出てくる場所
会話の見分けがつかないことは、もう珍しくありません。チューリングが予測として挙げた、5分で3割が誤認するという水準は、すでに超えています。 時間無制限で専門的に問い詰める版まで突破されたかは、まだ議論が続いています。
すると次に必要になるのは、突破されたあとの基準です。考えているかどうかを問わないまま、責任は誰にあるのか、証言として扱えるのか、権利はあるのかを決めなければなりません。
チューリングは問いを測れる形に置き換えました。いま必要なのは、その次の置き換えです。