考えたり感じたりする機械があるとします。それを風車小屋くらいの大きさまで拡大して、中に入って歩きまわってみます。
見えるのは、押し合い動き合う部品ばかりです。
まずは選んでみてください。
まず、選んでみる
考えたり感じたりする機械があるとします。それを風車小屋くらいの大きさまで拡大して、中に入って歩きまわってみます。見えるのは、押し合い動き合う部品ばかりです。
そこに、考えていることは見つかりますか。
正解はありません。選ぶと、その答えがどの前提に乗っているかが出ます。
この問いを作った人
ライプニッツが1714年に書いたものです。中国語だけを機械的に処理する部屋の話より266年、中身が空っぽの人間そっくりな存在の話より260年早い。機械に心があるかを、機械が無い時代に問うています。
彼の論はこうです。中に入って探しても、見つかるのは部品どうしの押し合いだけで、知覚を説明するものは何ひとつ見つからない。 だから知覚は、部品の組み合わせでは説明できない。単純な実体のほうに求めるしかない。
ライプニッツはそこからモナドという考えに進みます。それ以上分けられない単位が、それぞれ世界を映している、と。結論は現代では採られませんが、問いの立て方はそのまま残りました。
4つの答えは、それぞれ別の哲学に立っている
内側があるかで決める。部品をいくら調べても、感じることは出てこない。ライプニッツの立場です。中を歩いて見つからないという事実を、決定的な証拠として扱っています。
ふるまいで決める。部品の動き方そのものが、考えるということだ。探し方が間違っているという反論です。歯車のあいだに「考え」という物が落ちているはずがない。考えは物ではなく、動き方のパターンだからです。
生きものかで決める。機械の部品は、生きた組織ではない。素材の違いに賭ける立場で、サールが後に取った路線に近いものです。
分からないとする。何があれば見つけたことになるのかが分からない。これは鋭い指摘です。 「考えを見つけた」と言える状態を先に決めていないので、見つからないのは当然かもしれません。
300年前の問いが、そのまま残っている
ライプニッツの風車小屋を、いまの言葉に置き換えてみます。
脳のスキャン画像を隅々まで眺めても、そこに悲しみは映っていません。 血流の変化と電気信号があるだけです。それでも本人は悲しい。
これが意識のハードプロブレムと呼ばれているもので、ライプニッツはそれを機械の比喩で先に言い当てていました。 名前が付いたのは1990年代ですが、問い自体は300年前からあります。
いま、この問いが出てくる場所
大規模なモデルの中身は、数値の行列です。開いて見ても、理解も感情も見つかりません。
ここでライプニッツと同じ判断が必要になります。見つからないから無いのか、それとも探し方が間違っているのか。歯車のあいだに考えを探した人と、行列の中に理解を探す人は、同じことをしています。
答えは300年出ていませんが、問いの形が変わっていないことは確かです。
拡大するという発想が効いています
この思考実験の仕掛けは、大きくして中に入るという一点にあります。
小さいままだと、見えないのは技術の問題だと言い訳ができます。顕微鏡の性能が足りない、測定が粗い、いずれ分かる、と。風車小屋の大きさまで拡大してしまえば、その逃げ道が消えます。 歩いて隅々まで見られるのに、それでも見つからない。
同じ手を、現代の研究も使っています。線虫の神経細胞は302個しかなく、そのつながりは全部分かっています。 それでも、線虫が何かを感じているかどうかは決着していません。
小さくして全部見えるようにするか、大きくして全部見えるようにするか。やり方は逆でも、狙いは同じです。 見えるようにしたうえで、それでも見つからないものを確定させる。
ライプニッツはこの手つきを、実験装置が何も無い時代に、頭の中だけで組み立てていました。