二千年離れた二人の思想家が、ほぼ同じ処方箋を出していたことがあります。
ひとりは紀元1〜2世紀の古代ローマで、奴隷から哲学者になったエピクテトス。もうひとりは20世紀ウィーンで、個人心理学を打ち立てたアルフレッド・アドラー(1870-1937)。
エピクテトスは『提要』の冒頭でこう書きます。「我々の力の及ぶものと、及ばないものがある。意見、意欲、欲求、回避、要するに我々自身の働きは、我々の力の及ぶもの。身体、財産、名誉、官職、要するに我々の働きでないものは、我々の力の及ばないものである」。
アドラーは「課題の分離」を中核に置きました。他人がどう感じるか、どう行動するかは「他人の課題」であって、自分の課題ではない。自分が変えられるのは自分の行動と解釈だけだ、と。
時代も国も学問の文脈もまったく違う二人が、なぜここまで同じ方向を指したのか。これは偶然ではなく、人間の苦しみの根本にあるものが、二千年経っても変わっていないからだと思います。
目次
二人が共通して出した処方箋
コントロールできることに集中する
エピクテトスの『提要』は冒頭からドライです。「身体さえも自分のコントロール外だ」と宣言します。身体さえも? と思わず立ち止まる一行ですが、読み進めると意味が見えてきます。怪我も病気も老いも、自分の意志でどうにかなるものではありません。だからそこに精神的に依存すべきではない、というのが彼の言いたいことです。コントロールできるのは、自分の判断・選択・解釈だけ。これだけに精神を注ぎます。
アドラーも同じことを言います。アドラー心理学の中心概念のひとつが「課題の分離」です。他人がどう感じるか、どう行動するか、それは「他人の課題」であって自分の課題ではありません。自分が変えられるのは自分の行動と解釈だけ。これに集中することで、無駄な消耗が減ります。
職場で言えば、上司の機嫌、同僚の評価、市場の変動、組織の方針。これらは自分のコントロール外です。エネルギーを注ぐべきは、自分の準備、自分の応答、自分の選択。どこに自分のリソースを置くかを間違えないことが、メンタルを保つ第一歩です。
出来事ではなく、解釈が苦しみを作る
エピクテトスのもう一つの有名な命題があります。「人は事柄そのものに動揺するのではなく、事柄についての見解に動揺する」。
上司に厳しく指摘されたという「事柄」自体は中立です。それを「自分は無能だ」と解釈するか、「学ぶべき点を教えてもらえた」と解釈するかで、心の揺れが決まります。苦しみを作るのは出来事ではなく、解釈だ、と。
アドラーの「目的論」もここに重なります。フロイトが「過去の原因」が現在を規定すると考えたのに対し、アドラーは現在の目的が過去の解釈を選んでいると考えました。同じ過去を持っていても、それを「だから動けない」と使うか「だから動こう」と使うかは、今の自分の選択だ、と。
この発想は、現代の認知行動療法の基礎にもなっています。事実と解釈を分ける訓練ができると、メンタルの回復速度が変わります。
他者の課題と自分の課題を分ける
アドラーの「課題の分離」が現代に響いたのは、対人関係の悩みのほとんどがここに集約されるからです。
たとえば、提案書を出して相手がどう評価するかは「相手の課題」。良い提案書を作るのは「自分の課題」。両者を分けずに「評価が気になって書けない」という状態は、他人の課題を自分の課題に持ち込んでいる、と整理できます。
ストア派にも同じ発想があります。マルクス・アウレリウスは『自省録』のなかで繰り返し書きます。「他人の意見について多くを語る人ほど、自分の本来為すべき仕事を見失っている」。ローマ皇帝という究極の責任者の言葉だけに、重みが違います。
職場で「あの人が自分をどう思っているか」が気になったら、立ち止まってください。それは相手の課題で、自分が動かせる領域ではありません。動かせるのは、自分が今どう振る舞うかだけ。
過去ではなく、今に焦点を合わせる
アドラーは「いま、ここ」を強調しました。過去のトラウマを掘り返すよりも、今この瞬間に何を選ぶかが人生を決める、と。
ストア派も同じです。マルクス・アウレリウスは「人は過去にも未来にも生きていない、ただ今この一瞬を生きている」と書きました。失った過去を悔やむことも、未到の未来を恐れることも、今を生きる妨げになるだけだ、と。
セネカに至っては『人生の短さについて』のなかで、人生を短くしているのは自分自身だと痛烈に書きます。雑念と他人の事に時間を奪われて、自分の今を生きていない、と。ローマ時代から人間はこれをやり続けてきたわけです。
仕事に当てはめると、過去の失敗の反省は一度で終わらせます。未来の不安は具体的な準備に変えます。今この一時間に集中することが、結局メンタルを守る最も実践的な方法です。
二人で違うところ
ストア派とアドラーは、多くを共有しますが違いもはっきりあります。
ストア派は個人の内面の鍛錬に重きを置きました。社会との関わりは大事にしつつも、最終的には自分の理性をどう保つかが中心です。
アドラーは共同体感覚を強調しました。人は他者の役に立っているという感覚があってこそ幸福になれる、と。個人の自立だけでは不十分で、所属と貢献が必要だ、というのがアドラーの追加した一歩です。
仕事の文脈では両方の視点が要ります。ストア派的な「自分の領域に集中」が短期の消耗を防ぎ、アドラー的な「貢献の感覚」が長期のモチベーションを支えます。片方だけでは、案外長続きしません。
教えを誤用しない
これらの教えは強力ですが、使い方を間違えると逆効果になります。
ひとつは、「コントロールできない」を口実に行動を放棄しないこと。たとえば組織のパワハラ的な状況に対して「これは自分のコントロール外だから受け流そう」とするのは、教えの誤用です。本来は環境を変える、転職する、声を上げる、といった「自分にできる行動」が無数にあります。何を諦め、何を変えに行くかの判断こそが、教えの実践です。
もうひとつは、他者への共感を切り捨てないこと。「課題の分離」を機械的に適用すると、冷たい人間に見えることがあります。アドラー自身は共同体感覚との両輪で語っていました。課題は分けつつ、人として関わります。この両立が職場では特に大事になります。
自分の領域を作るということ
エピクテトスの一節をあらためて引いておきます。
我々を悩ますのは事柄ではなく、事柄についての我々の見解である。
仕事で動揺したとき、この一行に立ち戻れる人は強くいられます。二千年前の言葉ですが、現代のオフィスでもそのまま効きます。
ストア派とアドラーが二千年を越えて出した同じ答えは、人間が生きるかぎり変わらないものを指しています。運命に翻弄されない自分の領域を、自分の中に作ること。この地味な作業が、結局のところ折れないメンタルの本質なのだと思います。
なお、本シリーズの「老子・荘子に学ぶ消耗しない働き方」(9章)は、ここまでとは正反対の処方箋を提示します。ストア派が「理性で内面を整え、自分の領域に集中せよ」と言うのに対し、老荘は「理性で整えようとする作為すら手放せ」と言う。理性で立て直せる消耗にはストア派・アドラーが、理性の頑張りそのものが消耗源になっているときは老荘が効きます。両者は対立というより、消耗の種類によって使い分ける道具です。