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神

『神秘主義 キリスト教と仏教』

しんぴしゅぎ きりすときょうとぶっきょう

現代

鈴木大拙がエックハルトと禅の類似性を論じた古典的著作

宗教哲学

この著作について

禅を世界へ紹介した鈴木大拙《すずきだいせつ》が、晩年に英語でまとめた比較宗教論で、エックハルトを軸にキリスト教と仏教の神秘主義の構造的類似を論じた著作。

【内容】

本書の前半は、マイスター・エックハルトの説教を精読し、「離脱(アプゲシーデンハイト)」「魂の根底」「神の誕生」「神性」といった概念を丁寧に整理する。後半では、禅仏教の「本来の面目」「無心」「見性《けんしょう》」「空」との対応関係が、具体的な公案《こうあん》や語録を引用しながら示される。両伝統に共通して見出されるのは、自我と被造性の枠組みを内側から突き抜け、主客の対立が消える経験的地平である。大拙は両者を安易に「同じ」とはせず、異なる宗教史的文脈の中でこの共鳴をどう受け取るかを慎重に論じる。

【影響と意義】

エックハルトと禅の比較研究に先鞭をつけた先駆的著作として、戦後の宗教間対話に大きな影響を与えた。のちの上田閑照《うえだしずてる》、西谷啓治《にしたにけいじ》、トマス・マートンらの仕事へと継承されていく。

【なぜ今読むか】

伝統の違う人々が、それぞれの言葉で似た経験を語ってきた痕跡を具体的に確かめられる。宗教や思想を「優劣」でなく「響き」のうちに捉える視点は、多文化のなかで生きる現代人にとって静かな指針となる。

さらに深く

【内容のあらまし】

序文で大拙は、本書は体系的な研究ではなく、エックハルトを読みながら折々に書いた論考を集めたものだと断る。エックハルトの考えは禅と真宗にもっとも近く、自力の禅と他力の真宗は表向きは違っても通じ合う、というのがその見通しだ。構成は、エックハルトと仏教を論じる第一部と真宗を扱う第二部で、それぞれに付録が付く。

第一部の最初の章で大拙は、半世紀以上前に読んだ説教集の大胆さに驚いたと語り、神は世界をきのうでも明日でもなく今この瞬間に創るという説教を引いて、エックハルトのいう is-ness(isticheit)を仏教の「如」に重ねる。神と神性を分け、神は働くが神性は何も働かないという一節を空の教えに引き寄せる一方、エックハルトを汎神論者と決めつけるのは危ういと注意する。さらに『碧巌録』から、梁の武帝に聖なる真理を問われた達磨が、からりとして聖なるものは何もないと答え、では朕の前にいるのは誰かと問われて「知らない」と返す問答を読む。

第2章は仏陀の悟りを、無我の教説という客観の面と、悟った瞬間の心という主観の面から探る。主観の面の手がかりは、家を作る者よ、お前はついに見られた、垂木はすべて折れた、と歌う『ダンマパダ』の詩句である。第3章は、魂が自らに還って被造物だと知るために神が残した「小さな一点」を取り上げる。人は神の根底に届かないという読みに大拙は与せず、神の側と被造物の側を両方見渡せるその地点こそ悟りだと論じる。第4章「永遠の光の中に生きる」は、プラトンの『ティマイオス』、龍樹の八不、徳山と茶店の老婆の問答、芭蕉のなずなの句、エックハルトの今この瞬間を通して、時間のなかに永遠を見ることを説く。

付録の第5章は輪廻を渇愛《かつあい》から説き、渇愛が見たいと望んで目が生まれ、飛びたいと望んで鳥が生まれたという。第6章は十字架上のキリスト像と、立つ誕生仏、坐る成道の像、横たわる涅槃像とを姿勢の形で比べ、仏教には磔にすべき自我が初めから無いと述べる。

第二部の中心は「このまま」の章である。花は花のあり方で咲き、鳥は鳥のあり方で飛ぶ。大拙はこの「このまま」を、真宗の妙好人《みょうこうにん》、とりわけ子ども用のノート60冊あまりに念仏の言葉を書きためた下駄職人の才市《さいち》に読み取り、親鸞が自然法爾《じねんほうに》について記した文も引く。付録では、南無阿弥陀仏の「南無」と「阿弥陀仏」が一つになりながら消えずに残る不思議を説き、蓮如の手紙を収める。エックハルトは途方もなく、禅は近寄りがたいが、才市は仕事場を訪ねたくなるほど身近だと大拙は書き、最後に才市の言葉148篇の英訳を置く。

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