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哲

『哲学入門』

てつがくにゅうもん

近代

ラッセルが分析哲学の精神で哲学の根本問題を平易に論じた入門書の古典

哲学

この著作について

イギリスの分析哲学者バートランド・ラッセルが、『プリンキピア・マテマティカ』の大事業の合間に一般読者に向けて書き下ろした哲学入門の古典。

【内容】

全十五章の短い章立てで、「テーブルは本当にそこにあるのか」「物質とは何か」「観念論はなぜ説得的に聞こえるのか」「知識と確かさはどう区別されるのか」「普遍者(赤さ、正しさなど)は存在するか」「直観的知識と推論的知識」「帰納の問題」「真理とは何か」「知識の限界」といった、認識論と形而上学の根本問題が次々と取り上げられる。ラッセルは自身の「直接知」と「記述による知」の区別、感覚与件(センス・データ)の考え方を背景に据えつつ、学説よりも問いの立て方を読者に伝えることに重点を置く。末章で、哲学の価値は疑問を生き続けさせることにあると説かれる。

【影響と意義】

二十世紀前半の分析哲学の精神を最も簡潔に伝える入門書として世界中で翻訳され、教養書の定番となった。日本でも複数の訳本を通じて長く読み継がれ、大学の哲学入門の副読本として繰り返し指定されてきた。

【なぜ今読むか】

哲学書に初めて手を伸ばす人にとって、本書の短い章はそれぞれが独立した謎解きとして読め、しかも思考を途中で投げ出さない精神を強く伝えてくれる。「問いを抱え続ける力」を養いたいすべての読者にとって、時代を越えた入り口となる。

さらに深く

【内容のあらまし】

本書は、理性ある人なら誰も疑えないほど確かな知識がこの世にあるだろうか、という問いで始まる。

第1章の主役は目の前のテーブルだ。見る位置や光が変われば色は違って見える。物を見えるとおりに見る習慣を身につけねばならない画家の話から、「現れ」と「実在」の区別が引き出される。顕微鏡で覗けば別のでこぼこが現れ、形や触感も一定でないため、じかに知られる色や硬さは「感覚与件」と名づけられる。章の終わりでは、テーブルはライプニッツなら魂の共同体、バークリーなら神の心の中の観念、科学なら激しく動く電荷の集まりとなり、そもそもテーブルなど無いのかもしれないとまで言われる。

第2章はデカルトの方法的懐疑を評価しつつ、直接に確かなのは「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」ことだと一歩引く。猫の例では、部屋のあちこちに現れる猫が見ていない間も存在しているなら、食事と食事の間に腹を空かせるのも理解できる。感覚与件にすぎないなら、色の斑点の動きでしかなく、三角形がサッカーをできないように空腹にもなれない。外界の存在は厳密には証明できないが、認めたほうが経験の説明は単純になり、退ける理由もない。この信念は議論で得たものではなく、「本能的な信念」だとされる。

第5章は直接知と記述による知の違いを、ビスマルク本人、彼を知る友人、歴史でしか知らない私たちの三者で説明する。第6章には、毎日餌をくれた男に最後は首をひねられる鶏が登場し、明日も太陽が昇るという確信も、この鶏より安全とは限らないと示される。第8章はカントの説に、人間の本性が明日変わって2足す2が5になる可能性を封じられないと異を唱える。

第9章でラッセルは、自説の大部分がプラトンのものだと認める。「エディンバラはロンドンの北にある」の「北に」という関係は、どこにもいつにも存在しないが、心から独立しているという。第12章は、デズデモーナがキャシオーを愛していると誤って信じるオセローを例に、誤った信念とは何かを考える。第13章では、前首相の姓がBで始まると正しく信じても、それが前首相をバルフォアと思い込んだ結果なら知識ではない、と示される。第14章は、一片の骨から動物の全体を見抜く比較解剖学者さながらに、部分から世界全体を推論するヘーゲルの議論を取り上げ、よく調べれば多くの混乱と根拠のない前提を含むと退ける。最終章は、精神の糧を顧みない「実際家」の偏見から語り起こす。私的な関心の輪に閉じこもる人は、関心を外の世界全体へ広げないかぎり、包囲された砦の守備兵のように、いずれ降伏するほかない。抜け出す道の一つが哲学的観照だとされる。

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