『歯車』
はぐるま
現代
芥川龍之介の晩年の短編
この著作について
芥川龍之介が自死の直前に書き、死後に発表された私小説的短編で、崩れていく精神の記録として読まれてきた絶筆級の作品。
【内容】
「僕」と呼ばれる作家が、知人の結婚式に招かれて東京へ出るところから物語は始まる。ホテルに着くと視界の隅に半透明の歯車が回り始める幻覚が現れ、不眠と頭痛、「レエンコオト」を着た男の死の予感、偶然の符合への恐怖が次々と積み重なる。街を歩きながら見かける新聞記事、書店の本、友人の言葉のすべてが呪術的な連鎖を成して主人公を追い詰めていく。六つの短い断章で構成され、最後は「誰か僕の眠ってゐるうちにそっと絞め殺してくれる者はないか」という一文で閉じられる。
【影響と意義】
大正末期の知識人の精神の危機を、倫理的自己批判ではなく神経の解像度で記録した小説として、日本近代文学史のなかで屹立する位置を占める。中島敦、安部公房、後続の病理をめぐる文学にまで影を落としている。
【なぜ今読むか】
理由もなく世界の意味が歪み始め、小さな偶然が不吉な記号に見えてくる体験は、現代の不安障害や強迫観念の語彙ともよく響き合う。苦しさのただなかにある人に「自分だけではない」と告げる静かな同伴者になる一冊である。
さらに深く
【内容のあらまし】
六つの章には「レエン・コオト」「復讐」「夜」「まだ?」「赤光」「飛行機」と題が付く。
第一章で、僕は知人の結婚披露式に出るため、避暑地から東海道の駅へ車を飛ばす。同乗した理髪店の主人が、レエン・コオトを着た幽霊の噂を口にする。駅の待合室にも、乗りこんだ電車の向かいの席にも、同じ身なりの男が現れる。ホテルへ歩く途中、視野に半透明の歯車がまわりはじめ、それが消えると頭痛が来る。披露宴では漢学者に、堯や舜は架空の人物だと話して不快にさせ、皿の肉の縁に蛆を見つける。部屋で原稿に向かっても、ペンは英語の All right ばかり書き連ねる。やがて、姉の夫がその日の午後に轢死していたと知らされる。義兄も、季節外れのレエン・コオトを着ていた。
第二章では、片方だけ消えたスリッパに続いて、バラックの壁に掛かった義兄の肖像画が、口髭だけぼやけて見える。汽車に轢かれた義兄の顔には、口髭しか残っていなかったという。道を誤ったすえに、十年前に夏目漱石の告別式が営まれた青山斎場の前へ出てしまう。書店で子ども向けのギリシア神話の本を開くと、「一番偉いツオイスの神でも復讐の神にはかなひません。」という一行が僕を打ちのめす。
第三章は丸善の二階から始まる。手当たり次第に引き出した厚い本は精神病者の画集で、その挿し絵には目鼻のある歯車が並んでいる。読みはじめた小説の主人公の精神的な闘いに涙を流したあと、右の目にまた歯車が見えはじめ、僕はヴェロナールを飲んで眠る。第四章では、道に落ちた紙屑が、光の加減でどれも薔薇の花に見える。だが旧友との会話では朱舜水の名がうまく発音できず、電話の声に聞こえたモオルという語を、僕は頭のなかでフランス語の「死」に綴り直してしまう。
第五章で、僕は聖書会社の屋根裏に住む老人を訪ねる。老人は信仰を勧め、影を信じるなら光も信じられるはずだと言う。僕は光のない暗もあると答え、黙るほかなくなる。老人から借りた『罪と罰』を開くと、製本の綴じ違いで『カラマーゾフの兄弟』の、悪魔に苦しめられるイヴァンの場面が現れる。
第六章で僕は避暑地へ帰る。妻の実家の庭先では、黄色い翼の単葉機が松の梢すれすれに舞い上がり、砂山に立つブランコのないブランコ台は絞首台に見え、鴉がとまっている。歯車は数を増して回りを速め、二階で頭痛をこらえていると、閉じた目の裏に銀色の翼が映る。肩を震わせていた妻が、なぜかお父さんが死んでしまいそうな気がしたと打ち明ける。僕はそれを一生でいちばん恐ろしい経験と呼び、もう書き続ける力はないと記し、誰か眠っているうちにそっと絞め殺してくれる者はないか、と結ぶ。
著者
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