フィロソフィーマップ

SNS時代に自分らしくいる哲学:サルトルの視線と自由

「いいね」やフォロワー数が気になる構造を、サルトル『存在と無』のまなざし論と対自存在の概念から読み解きます。他者の眼差しに固定されずに、自分の自由を保つ方法を考えます。

投稿してから10分おきに通知を確認してしまう。フォロワー数が一人減ると、誰がフォロー解除したのか気になって遡ってしまう。ストーリーを上げると、足跡を見て「あの人が見てくれたか」を確認する。投稿の文面を3回書き直し、4枚目の写真と5枚目を入れ替える。SNSの一日は、こうした小さな点検の連続です。

なぜ「いいね」がこれほど気になるのでしょうか。20世紀フランスのサルトル存在と無(1943)で展開したまなざしの哲学は、SNS時代の私たちに鋭く刺さります。彼の言葉でいえば、SNSとは「他者の視線が常時オンになっている世界」です。

目次
  1. 「いいね」が止まらないのは、意志が弱いからではない
  2. サルトルのまなざし:他者は私を「物」にする
  3. 即自と対自:人間は定まらない存在である
  4. 自己欺瞞:定まりたい欲望が自由を裏切る
  5. 視線の中で自由でいる

「いいね」が止まらないのは、意志が弱いからではない

SNSをやめられない自分を、意志が弱いと責める人は多いでしょう。けれども、これは個人の意志の問題ではありません。SNSは他者の視線を可視化し、数値化する装置として設計されています。フォロワー数、いいね数、再生数、コメント。これらは「自分が他者からどう見られているか」を秒単位でフィードバックします。

人間が他者の視線を気にするのは、SNS以前からの根本構造です。ただ、かつてその視線は曖昧で、間欠的でした。職場の同僚や家族の表情から推測する程度。SNSはその視線を24時間連続で、数値として供給します。気になる方が自然なのです。

サルトルが鍵穴の例で描いたのは、まさにこの構造でした。

サルトルのまなざし:他者は私を「物」にする

『存在と無』第三部の有名な場面で、サルトルはこう描きます。あなたは廊下のドアの鍵穴から、向こうの部屋を覗いています。嫉妬や好奇心、何かに駆られて夢中になっている。この瞬間、あなたは「覗くという行為そのもの」になりきっていて、自分を客観視していません。

そこに足音が聞こえます。誰かが廊下を歩いてきて、あなたの姿を見ます。

その瞬間、何が変わるのでしょうか。あなたは突然、「鍵穴を覗いている人」として固定される。さっきまで自分は行為そのものだったのに、他者の視線によって、自分は一つの「物」になります。覗き屋、卑しい人、変な人。どんな評価かは別として、視線は私を一つの輪郭に閉じ込めます。

サルトルが描いたのはこの他者のまなざしによる存在の凝固です。他者が私を見る瞬間、私は「私が私自身について持っていた自由」を失います。代わりに、他者の中にある「私の像」が現実として迫ってきます。

SNSの「いいね」は、この視線の小さな結晶です。投稿は、世界に向けて開かれた鍵穴です。覗いた人が増えるほど、自分は「面白い人」「センスのある人」「成功している人」として固定されていく。固定されることは、ある意味で安心です。けれども固定された自分は、もう自由ではありません。

即自と対自:人間は定まらない存在である

サルトルは存在を二つに分けました。即自存在対自存在です。

即自存在とは、椅子や石のように、ただそこにあるもの。「椅子は椅子である」という同一律で完結している。一方の対自存在とは、人間の意識のあり方です。人間は常に「まだそうでないもの」に向かって自分を作り続けていて、決して椅子のように一つの形に収まらない。これがサルトルの言う「実存は本質に先立つ」の意味です。

ここに人間の根本的な居心地の悪さがあります。人間は対自として、定まらない自由を生きるしかない。けれども定まらないことは不安定で、疲れます。だから人間は、こっそり「即自であること」を望みます。「自分は陽キャだ」「自分は内向的だ」「自分はクリエイターだ」と決めつけられたい。決まれば、迷わなくていい。

SNSは、この即自への憧れを助ける装置として機能します。プロフィール欄、肩書き、自己紹介の100文字、固定ツイート。これらはすべて、自分を一つの輪郭で言い切るための装置です。フォロワー数は、その輪郭を裏付ける数字になります。「これだけの人に承認されているのだから、私はこういう人で間違いない」という安心。

けれどもサルトルからすれば、これは自由の放棄です。

自己欺瞞:定まりたい欲望が自由を裏切る

サルトルは、自分を即自として固定しようとする態度を自己欺瞞と呼びました。直訳すれば「悪しき信念」です。

カフェのウェイターの例が知られています。ウェイターは過剰なほど機敏に動き、「ウェイターらしいウェイター」を演じている。彼は「私はウェイターだ」と自分に言い聞かせ、その役割に没入することで、自分が本当はもっと別の選択もできた自由な存在だという事実から目を逸らしている。サルトルはこれを自己欺瞞の典型として描きました。

SNSにも同じ構造があります。「インフルエンサーらしい投稿」「クリエイターらしい発言」「意識高い系らしい言い回し」。役割に没入すればするほど、フォロワーは増え、固定されたイメージは強まる。けれども、その役割に閉じ込められた自分は、もう自由に発言できません。批判される投稿は怖い。キャラを壊す本音は怖い。安心と引き換えに、自由が削られていくのです。

サルトルの厳しい言葉に「人間は自由の刑に処されている」があります。私たちは自由から逃げたい。けれども逃げ切れない。自分を物として固定しても、心の底ではまだ別の選択肢があったことを知っているからです。だから自己欺瞞は、いつも疲れます。

視線の中で自由でいる

サルトルの処方は、SNSをやめろという単純なものではありません。視線から完全に逃げることはできない、と彼は言うからです。問題は、視線の中で自分の自由をどう保つかです。

実践的な目安は三つあります。

第一に、自分の役割と自分自身を意識的に分ける。SNSのプロフィールに書いた肩書きは、自分の一面に過ぎないと自分に言い聞かせます。インフルエンサーである前に、迷い、選び直し続ける一人の対自存在だ、と。

第二に、「いいね」が削っているのは何かを観察する。承認を得ると安心する。その安心は、本当に自分の選びたい方向への安心か。それとも単に「定まれた」ことの安堵か。後者なら、自由を切り売りしているサインです。

第三に、意図的に役割を裏切る投稿を時々する。フォロワーが期待する内容ばかり投稿していると、自分は完全に即自に近づいていきます。たまに違うことを言う、違う写真を上げる。フォロワー数は減るかもしれません。けれども自分の対自としての呼吸は戻ってきます。

SNS時代に自分らしくいるとは、視線を消すことではなく、視線の中で固定されきらないことです。サルトルの言葉でいえば、自由は権利ではなく、毎日選び続ける労働です。今日も投稿の手を一瞬止めて、「これは自分の自由から書いているか、それとも視線に書かされているか」を問う。この小さな間が、自分を取り戻す時間になります。

関連する哲学者

関連する著作

著作存在と無サルトル

「実存は本質に先立つ」を哲学的に基礎づけた実存主義の主著